石段に沿って続く漆喰で塗り固められた塀は、通称オランダ塀と呼ばれています。1609年から1641年までの間、この塀の東側にオランダ商館が置かれていました。商館を外から覗かれないために、また延焼などから守るために、この塀が設けられました。塀の高さは約2m、底辺の幅は約70㎝あります。商館当時の様子を知ることのできる数少ない遺構のひとつです。
平戸オランダ商館は、1630年代に行われた敷地の拡張工事によって、ほぼ現在の地形が整い、この海岸石垣も当時のものである。
ここには、オランダ国旗が翻っていたが、商館が長崎へ移転したのち、1643(寛永20)年に常夜燈が設置され、夜間の船の航行に危険な平戸瀬戸の灯台として機能していた。
1613(慶長18)年に設置され、1623(元和9)年に撤退するまでの10年間、平戸を拠点として日本との貿易活動を行った。
当初は、中国人商人李旦の家屋を借りて商館施設とし、徐々に拡張していった。
最終的には対日貿易で成果を上げることが出来ず、商館を閉鎖、日本から撤退する。
王直屋敷
1541(天文10)年、明(中国)の海商の王直は、この地に唐風の居宅を構え松浦家25代隆信(たかのぶ)(道可(どうか))の寵を得て15年間、栄華を極めた所である。
1588(天正16)年、領主の隠宅として用いられるようになり、印山寺と呼ばれるようになった。
天門寺跡
1550(天文19)年、ポルトガル貿易船の入港をもって、平戸の西洋貿易が始まった。そして、1561(永禄4)年平戸人とポルトガル船員との間に起こった宮ノ前事件が原因で平戸を去ったが、2年後再び平戸に戻ったので、松浦家25代隆信(たかのぶ)(道可(どうか))は歓迎し、この地にカトリック教会天門寺(御宿りのサンタマリア教会)建立を許可したのである。
松浦家28代隆信(たかのぶ)(宗(そう)陽(よう))は、1591(天正19)年に生まれ、1637(寛永14)年に没した。
隆信(たかのぶ)(宗(そう)陽(よう))の時代は、平戸藩の歴史上もっとも変化の激しい時代であり、平戸がオランダ・イギリス・中国等外国との貿易に大変な賑わいを見せていた時代であった。隆信(たかのぶ)(宗(そう)陽(よう))が没した4年後の1641(寛永18)年にオランダ商館が長崎へ移り、華やかだった海外貿易は終わりを告げたのである。
誓願寺橋は、1848(嘉永元)年の絵図に、現在のような高欄をもつ姿を確認することが出来るので、それ以前に建造されたものと考えられます。江戸時代の平戸城下町には、5つ以上の石橋がありましたが、現在は、この橋のほか幸橋と法音寺橋が残っているだけです。
法音寺橋は、幸橋(元禄15・1702年、国指定重要文化財)を造るときに石工が試作したものと伝えられています。大きさは幸橋の四分の一ほどで、アーチの形がほぼ一致します。表面石に高欄の取付け跡があり、以前は両脇に高欄がありました。橋の名は、渡ったところにあった法音寺に由来します。
最教寺は806年、空海が唐より帰国した際、この地で座禅などを行ったとされることから開かれた寺院で、毎年、節分の日に行われる「子泣き相撲」が有名である。「霊宝館」には、松浦家第26代法印鎮信が朝鮮の役に従事した際、持ち帰ったといわれる「絹本着色仏涅槃図」のほか、「仏誕生図」、「愛染明王像」などが展示されている。
弘法大師(空海)の霊場として名高い岩の上町西高野山最教寺に、1988年(昭和63)三重大塔としては、日本一の規模を誇る大塔が完成した。朱色で聳える三重大塔は、最教寺が弘法大師の1150年御遠忌を記念して、奥の院本殿横に建立したもので、相輪までの高さは、33.5mと雄大なものである。