平戸の教会群
キリシタン関連史跡

平戸のカトリック教会群キリシタン関連史跡として、焼罪史跡公園、ザビエル記念碑、パブロ・バブチスタ神父碑、小麦様、ウシワキの森、おろくにん様、昇天石、だんじく様、ガスパル様、幸四郎様などを含む、14の教会があり、9の史跡があります。

平戸の教会群キリシタン関連14の教会

平戸ザビエル記念教会
ひらどざびえるきねんきょうかい
創建年:1931(昭和6)年 教会の保護者:大天使聖ミカエル
平戸ザビエル教会

平戸の中心市街地の高台にある教会。献堂40周年の1971(昭和46)年に、フランシスコ・ザビエルの3度の平戸訪問を記念して、記念像が建てられ「聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂」とも呼ばれるようになり、その後、現在の「平戸ザビエル記念教会」に名称をあらためられた。

田平天主堂
たびらてんしゅどう
創建年:1918(大正7)年 教会の保護者:日本二十六聖殉教者
田平天主堂

田平地区は1886(明治19)年、黒島教会のラゲ神父が自費で原野一町歩を買い三家族を移住させ、続いて出津教会のド・ロ神父が一町歩を買って四家族を移住させたことにはじまる。1888年に仮聖堂を建てたが、1918年に現在の天主堂が完成。2018年5月13日に献堂100周年を迎えた。国指定重要文化財。

宝亀教会
ほうききょうかい
創建年:1898(明治31)年 教会の保護者:聖ヨゼフ
宝亀教会

宝亀地区は外海地方から移住した潜伏キリシタンの子孫が多く、1878(明治11)年には民家御堂が、そして1885(明治18)年には仮教会が建てられていた。現聖堂は1898(明治31)年にマタラ神父指導のもと黒島で洗礼を受けた宇久出身の大工に
よって建てられたものである。

山野教会
やまのきょうかい
創建年:1924(大正13)年 教会の保護者:洗礼者聖ヨハネ
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山野地域は西彼杵や外海から移住してきたキリシタンの子孫で、1872(明治5)年に長崎で洗礼を受けた住人が指導者となり、1887(明治20)年には最初の教会堂が建設されたという。リブ・ヴォールト天井の現教会堂は1924(大正13)年に完成した。

紐差教会
ひもさしきょうかい
創建年:1929(昭和4)年 教会の保護者:十字架称賛
紐差教会

紐差地区は仏教徒をはじめ、明治に外海から移住してきた人々や、200年以上前に大村藩から移住してきたキリシタンの子孫らが混在してきた地域である。ペルー神父によってカトリックに改宗したかくれキリシタンや、一部の仏教徒がキリシタンになった。現聖堂は鉄川与助が設計施工した白亜の教会である。

山田教会
やまだきょうかい
創建年:1912(大正元)年 教会の保護者:七つの悲しみの聖母
山田教会

江戸時代、生月は多くの殉教者を出し、孤立無援の状態での潜伏が続いた。明治5~6年ごろ、黒島の信徒がカトリックへの復帰を働きかけるもなかなか応じず、1878(明治11)年に平戸を訪れたペルー神父によって洗礼を受け、カトリックに復帰した人々が山田地区の信徒の祖先である。

古江教会
ふるえきょうかい
創建年:1899(明治32)年 教会の保護者:大天使ミカエル
古江教会

古江湾突端に位置する大瀬地区は元松浦藩の放牧地で、五島からキリシタンが移住してきた場所である。1899(明治32)年、リブ・ヴォールト天井のある木造教会が建てられたが、老朽化は避けられず、1990(平成2)年に新聖堂が建立された。

上神崎教会
かみこうざききょうかい
創建年:1891(明治24)年 教会の保護者:聖フランシスコ・ザビエル
上神崎教会

1880(明治13)年、黒島から6家族の信徒が小舟で平戸島の北の泊ノ浦に上陸したことが教会の始まりである。その後、1883(明治16)年に五島からも移住し、旧松浦藩の放牧地だった一帯が大集落となった。2014年6月、3代目となる新聖堂に建替えられた。

中野教会
なかのきょうかい
創建年:1952(昭和27)年 教会の保護者:無原罪の聖母
中野教会

中野地区は禁教下、キリシタンたちが農業を営みながら、山奥に肩をよせあって潜伏した地域である。1871(明治4)年に7戸が信仰を表明し、コロンバン会の神父の援助を得て、1952(昭和27)年に待望の聖堂を建立した。それまでは個人宅でミサが捧げられていたという。

大佐志教会
おおさしきょうかい
創建年:1911(明治44)年 教会の保護者:無原罪の聖母
大佐志教会

明治初期、外海地方から迫害を逃れてきた信徒たちが1886(明治19)年に信徒の家でミサを行っていたが、1911(明治44)年に17戸の信徒たちによって旧大佐志教会を建立した。その後、信徒数の増加に伴い1994(平成6)年に、現在地に新聖堂が建てられた。

木ヶ津教会
きがつきょうかい
創建年:1962(昭和37)年 教会の保護者:聖マリアの汚れなき聖心
木ヶ津教会

明治中ごろ、外海・黒島・五島から開拓者として移住してきた殉教者の子孫が暮らす地域の一つで、当時、信徒は紐差教会まで約4kmの距離をミサのために通っていた。現聖堂は1962(昭和37)年、高校の体育館があった場所に古材を譲り受け建設された。

福崎教会
ふくざききょうかい
創建年:1956(昭和33)年 教会の保護者:被昇天の聖母
福崎教会

外海・黒島・五島から、明治中ごろに移住した信徒の子孫が多い。1956(昭和31)年に田平小教区から独立し、西木場教会の巡回教会となる。聖堂は1973(昭和48)年に愛苦会運営の愛児園閉鎖後改築され、1985(昭和60)年に現聖堂が新築された。

平戸口教会
ひらどぐちきょうかい
創建年:1952(昭和27)年 教会の保護者:聖母のみ心
平戸口教会

最初、田平教会の保育園が建てられ、その建物を仮の聖堂として利用していた。ここに住んでいたコロンバン会の司祭によって、1952(昭和27)年に現在の聖堂が建立された。1960(昭和35)年に、田平教会から独立している。

壱部教会
いちぶきょうかい
創建年:1964(昭和39)年 教会の保護者:絶えざる御助けの聖母
壱部教会

生月島の壱部地区は信者の数は少ないものの、1879(明治12)年頃、黒島の信徒によって潜伏キリシタンからカトリックになった人々の子孫が、この地区の現在の信徒である。壱部教会堂は、1964(昭和39)年に建立された。

平戸の教会群キリシタン関連9の史跡

焼罪史跡公園
やいざしせきこうえん
焼罪史跡公園

カミロ・コンスタンツォ神父が火刑となった場所。1605(慶長10)年に来日し、マカオに追放になるも、再び日本に潜伏して、平戸・生月・佐賀・唐津などで布教を行った。1622(元和8)年、この地で火刑に処せられるが、火をつけられても日本語・ポルトガル語・オランダ語で説教を続け、聖歌を唄い息絶えたと言われる。

フランシスコ・ザビエル記念碑
ふらんしすこ・ざびえる きねんひ
フランシスコ・ザビエル記念碑

1550(天正19)年、ポルトガル船が平戸に初めて入港したことを聞いたフランシスコ・ザビエルは、鹿児島から同年6月に平戸へ向かった。1949(昭和24)年、ザビエル渡来400年の際、当時ザビエルが滞在した木村宅があった崎方公園に記念碑が建立された。

パブロ・バプチスタ神父碑
ぱぶろ・ばぷちすた しんぷひ
パブロ・バプチスタ神父碑

1550(天正19)年、ポルトガル船が平戸に初めて入港したことを聞いたフランシスコ・ザビエルは、鹿児島から同年6月に平戸へ向かった。1949(昭和24)年、ザビエル渡来400年の際、当時ザビエルが滞在した木村宅があった崎方公園に記念碑が建立された。

おろくにん様(うしわきの森)
おろくにんさま(うしわきのもり)
おろくにん様(うしわきの森)

禁教時代、かくれキリシタンの家族の長女が仏教徒の男との間に子どもを身ごもった。男に信仰を明かしたところ、役人に通報され、身ごもった子どもも含め6人が根獅子の浜で処刑され、遺体は海に捨てられた。村人たちはその遺体をウシワキの森に埋葬し、聖地とした崇めた。

昇天石
しょうてんせき
昇天石

1567(永禄10)年の記録に、キリシタンのトメーが仏教徒の領主に逆らって根獅子の浜で処刑されたと残されている。1635(寛永12)年には、薄香・獅子・根獅子のキリシタン70数名が処刑され、白く輝く砂浜は赤く染まったといわれている。

だんじく様
だんじくさま
だんじく様

キリシタンの弥市兵衛とマリアと子ジョアンは、暖竹(だんぢく)という竹の茂みに隠れていたが、海岸を遊んでいたジョアンが船に乗った役人に見つかり、一家全員処刑されたと伝えられる地。命日にはかくれキリシタンの行事があり、平戸市指定史跡にも選定されている。

ガスパル様(黒瀬の辻殉教地)
がすぱるさま(くろせのつじじゅんきょうち)
ガスパル様(黒瀬の辻殉教地)

生月で潜伏キリシタンの指導的立場だったガスパル西が処刑された地。生月島最初の殉教者であった。「クルスの辻」と呼ばれたがそれが訛って現在は「黒瀬の辻」と呼ばれる。、生月最初の殉教者となった。記念碑の裏にガスパル西の墓が聖地として残っている。

幸四郎様
こうしろうさま
幸四郎様

幸四郎様(パブロー様)は、もともとキリシタンを弾圧・迫害するために生月に派遣されてきた役人であったが、自らの矢で失明するも、キリシタンの看護によって回復し、その後、自身もキリシタンになって殉教した。聖地となっており、履き物を履いて入ったり、薪などを持ち帰ってはならないとされている。

焼山
やけやま
焼山

この地に、もともと教会堂が建立されていたが、禁教後、斬ったキリシタンを穴に放り込み火をかけたことから「焼山」と呼ばれ、教会堂もこの時焼かれたといわれている。この地は樹木の伐採が禁じられた聖地で、現在御堂が残っている。