聖地・中江ノ島

生月島での布教

生月島での布教松浦隆信(道可)

 イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが、コスメ・デ・トーレスやフェルナンデス、日本人ベルナルドらを伴って平戸を訪れたのは、1550(天文19)年のことでした。ザビエルらは、貿易の利潤に着目していた松浦隆信(道可)の許可を得て家臣の木村氏の家で寝泊まりをしながら、キリスト教の教えを伝えていきます。平戸ではわずか1ヶ月の間に100人ほどの人々が洗礼を受けたと言われており、長崎県では平戸からキリスト教が広まっていきます。
 ザビエルは平戸での布教が一段落すると、後輩神父らに布教の任を託し、次の目的地に旅立っていきました。平戸での布教を任された宣教師たちは、各地を巡回して布教活動を実施していきます。その1人バルタザール・ガーゴ神父によって、松浦隆信の又従兄弟である籠手田安経・一部勘解由がキリスト教の洗礼を受けます。さらにガスパル・ヴィレラ神父によって生月島南部、度島、平戸島西岸の籠手田領の一斉布教が図られるとともに、生月島北部を中心とする一部領でも一斉布教が行われ、山田や度島に教会が建立されたといわれています。1564(永禄7)年のルイス・フロイス神父の書簡のなかには、度島のキリシタンが聖水を大切に祀り、病気直しなどに用いたとする記述が残されており、一斉布教が行われた痕跡をみることができます。  

籠手田氏、一部氏の亡命

黒瀬の辻殉教地にある西玄可ガスパルの墓黒瀬の辻殉教地にある西玄可ガスパルの墓

 しかし1561(永禄4)年には、平戸の七郎宮前で商取引に起因するキリシタンと非キリシタンとの衝突(宮の前事件)が起き、ポルトガル船は寄港地を大村領の横瀬浦に移ります。その後大村氏家臣の反乱による横瀬浦の炎上で寄港地は平戸に戻り、天門寺という教会も建設されるものの、布教に非協力的な松浦氏の姿勢で、寄港地は再び大村領の福田、さらに長崎へと移っていきます。しかし平戸での教勢はその後も盛んで、各地に教会や十字架が建てられ、そこではラテン語の聖歌が唄われていたといわれています。

時の権力者豊臣秀吉は当初はキリスト教を容認していましたが、朝鮮出兵のため九州に出向いた際に、キリシタン領主とキリシタンの団結の現状やキリシタンによる神社仏閣の破壊等の状況を目の当たりにし、1587(天正15)に伴天連追放令を発布します。キリスト教の布教を禁止するとともに、20日間以内に宣教師に国外に退去するよう命令しましたが、東南アジア諸国との朱印船貿易を奨励したため、実効性は薄かったとされています。伴天連追放令は一時的なものでしたが、その後はセミナリヨ(小神学校)やコレジオ(大神学校)とともに全国の宣教師や修道士が生月島に避難してきたといわれています。
布教には積極的ではなかったものの、南蛮貿易の利もあって積極的な弾圧を行わなかった松浦隆信は1599(慶長4)年に亡くなります。その子鎮信(法印)は、領内の宣教師追放を命じ、いよいよ領内での禁教政策が強まります。鎮信は滞在中の京都から、父親の仏式の葬儀に籠手田安一や一部正治も出席する事を求めますが、これは事実上の棄教の要求だったのです。両者は悩んだあげく、キリシタンの領民達を率いて退去することを決心し、1599年のある夜、両者は600人もの信徒とともに島を脱出し、長崎に亡命しました。領主が居なくなった生月島は松浦氏の直轄領となり、松浦鎮信は禁教政策を推し進めるために教会や十字架を破却して、寺社を再興させます。 さらに1609(慶長14)年11月14日には籠手田・一部両氏の脱出後、信仰を指導していた元籠手田氏の代官・西玄可(ガスパル)も捕らえられ、かつて十字架が立っていた黒瀬の辻で処刑、埋葬されたのです。また妻のウルスラや息子ジョアンも、連行される途中で斬り殺されました。

中江ノ島での殉教

中江ノ島での殉教カミロ神父の殉教地「焼罪史跡公園」

1613(慶長18)年、江戸幕府によって全国に禁教令が発せられた後も日本国内には多くの宣教師が潜伏して宣教活動を続けたが、その中の一人にイエズス会のカミロ神父がいました。カミロ神父はイタリアのナポリ地方コセンザ村に生まれ、1591年にイエズス会に入り、1605(慶長10)年に日本に来たが禁教令のため追放になりました。しかし1621(元和7)年に再び日本に来訪・潜入し、平戸や生月などで潜伏している信徒に聖務を行いました。その後、生月の伝道士ヨハネ(坂本)左衛門、修道士ニコラス某、伝道士ガスパル籠手田、平戸教会の看房アウグスチノ太田らと共に上五島の納島に渡って聖務を行い、さらに宇久島に渡った所で五島藩の役人に捕縛され、1622(元和8)年9月15日に田平側の平戸瀬戸に面した焼罪(やいざ)で処刑されました。
 そして神父の宣教活動を手助けしたとして生月の信徒も、捕らえられて次々に処刑されるのです。神父の宿主で伝道士ヨハネ(坂本)左衛門(31)と、小舟を寄附したダミヤン出口(42)は、中江ノ島で斬首されます。ダミヤン出口は自分を死地に運ぶ船の櫂を漕ぎ、讃美歌を歌ったといわれており、刑場でヨハネ坂本は頭上にお経をくくりつけられたが、自分はキリシタンであると叫び、ダミヤン出口は「至聖なる聖体よ、誉めたたへられ給へ!」と言いつつ、首を警手の前に出したといわれています。また6月3日には堺目の船頭ヨハキム川窪蔵兵衛(47)が、6月8日にはヨハネ次郎右衛門(47)が中江ノ島で処刑されます。次郎右衛門は棄教の印に偶像教のお札を呑むことを拒み、死刑の宣告を受けたとされており、彼は長い鞭打の苦行を行って殉教の覚悟を固め、中江ノ島に向かう船の中で「ここから天国は、もうそう遠くない」と言ったといわれています。さらに7月22日、ガブリエルーノ瀬金四郎もその住家で捕らえられ、26日死刑の宣告を受けます。船で生月に連行される途中、彼は休まず説教を続け、最後に「キリシタンの教えは、時が来れば、再び頭を持上げて、日本中に広まるであろう」という言葉で締めくくったといわれています。1624(寛永元)年3月5日、ダミヤン出口とヨハネ坂本の家族達が、中江ノ島の地獄という所で殺されたが、坂本の年長の子供達3人は一緒に昇天できるように、俵につめられた上で一緒に縛って貰い、首に別の袋を被せられて海に投げ込まれたとされています。
 このような中江ノ島の殉教の話は、かくれキリシタンの間にも伝承されており、かくれキリシタン信仰の中でも中江ノ島は、「お中江様」「お迎え様」「サンジュワン様」「御三体様」などと呼ばれ、御神体に匹敵する最高の信仰対象とされ、聖水を取る「お水取り」の行事が行われています。しかし、このような中江の島の聖地化は、元和・寛永の殉教事件以前に、洗礼者ヨハネの信仰に関連して成立していた可能性が強いとも考えられています。

中江ノ島での殉教_2