平戸のキリスト教の歴史 解説

もくじ

  1. 「平戸」に何故キリスト教が伝わったのか
    1. (1)大洋路の確立と宗教の役割
    2. (2)後期倭寇とポルトガル人
  2. 1.平戸地方のキリシタン時代
    1. (1)港市平戸における布教
    2. (2)布教後退期
  3. 2.平戸地方における禁教時代
    1. (1)港市平戸における布教
    2. (2)徳川幕府の禁教令以降
    3. (3)禁教第3期:弾圧の鎮静化
  4. 3.復活時代

「平戸」に何故、キリスト教が伝わったのか

(1)大洋路の確立と宗教の役割

「天文19年(1550)、最初のポルトガル船が平戸に入港し、キリシタンの布教が始まる」。この出来事は決して偶発的なものではない。何故平戸にポルトガル船が入港したのか。そしてキリシタンの布教が行われたのか。そのことを理解するためには、平戸という港の歴史について知っておく必要がある。
 日本と中国の間の行き来が始まったのは、今から二千年以上前の弥生時代の事だが、それから奈良時代になる頃までは、唐津付近から壱岐・対馬を経由して朝鮮に渡り、半島西岸を北上して中国大陸に至る航路だった。それに対して、博多湾を基点にして平戸、五島列島を経由して、東シナ海を横断して中国大陸に至る航路が利用されるようになるのは、大宝2年(702)の第7回遣唐使あたりからと考えられている。遣唐使船は巨大だが構造・性能が貧弱で難船が頻発したが、九世紀になると新羅人や中国人がより高性能の船(ジャンク船)でこの航路を往来するようになる。こうして博多と寧波を結ぶ航路「大洋路」が成立し、その後八百年にわたって日本の最も重要な対外交渉路として機能していく事になる。この航路を利用した貿易活動を主導したのは、中国人の「綱主」と呼ばれる海商達だったが、日本の貴族、寺院、商人達も資金を投じて活動に参加していた。
 この航路は、生糸や陶磁器など中国の優れた産品を日本に運び、中世に大量にもたらされた銭は、貨幣経済の定着に大きな役割を果たした。一方、日本からも様々な産物が輸出されたが、南九州の硫黄島(鬼界ケ島)で産出された硫黄は火薬の原料となり、北方騎馬民族との戦争で重要な役割を果たした。同航路からは中国の文化も日本にもたらされ、密教(天台宗・真言宗)、禅宗(臨済宗・曹洞宗)も大洋路を通って伝来したが、これらの宗教は貿易活動においても使節・通訳、資金提供、航路の安全守護など様々な役割を担った。航路の起点である博多や航路沿岸にも各宗派の寺院が建立され、平戸地方では平戸港周辺の他、平戸瀬戸沿岸、平戸島中部の安満岳、南部の志々伎山などに寺院が建立されている。また中国の民間信仰も伝来しており、平戸の中心に祀られていた七郎宮の祭神は、中世の中国で航海神として祀られた紹法(招宝)七郎だった。

(2)後期倭寇とポルトガル人

大洋路の貿易活動が最も活況を呈するのは16世紀中頃である。当時中国大陸を支配していたのは海禁政策を取る明王朝だったが、中国の沿海住民を主体に東アジア海域を舞台とした私貿易が盛んに行われ、時として略奪行為も伴ったその活動は「倭寇」と呼ばれたが、その倭寇の大頭目で中国人の五峰王直は平戸に屋敷を構えている。王直は、1545年には博多商人・倭助才門を舟山列島の双嶼港に誘い交易を行っていることから、日中間で双方向的な貿易体制の確立を目指していた事が伺えるが、ポルトガル人の初期の貿易活動についても、1543年のポルトガル人の種子島来訪(いわゆる鉄砲伝来)の際の搭乗船が五峰(王直)の船である事や、1550年に日本に最初に来到したポルトガル船も王直の屋敷が置かれた平戸に入港している事を考えると、東アジアにおけるポルトガル貿易は、当初、倭寇(中国人私貿易商人)の貿易体制に組み込まれた形で展開していった事は間違いない。
 当時、平戸が主要な受け容れ港(港市)として繁栄していた事については、「大曲覚書」に「平戸津へ大唐より五峰と申す人罷着て、今の印山寺屋敷に唐様に屋形を立て居住申しければ、夫をとりへにして大唐の商船絶えず、剰さへ南蛮の黒船とて始めて平戸津へ罷着ければ、唐南蛮の珍物は年々満々と参候間、京堺の商人諸国皆集り候間、西の都とぞ人は申しける」とある事からも分かるが、宣教師の文言にも「(平戸は)日本全国から異教徒の商人が数多く訪れる良港であり」〔トルレス1557〕「この平戸の港はシナからもちらされる商品の一大消費地であり」〔フロイス1564〕などとある。ポルトガル船が日本で初めて平戸に来航したのも、後期倭寇の貿易体制の中で平戸が重要な役割を果たしていたからに他ならないが、ポルトガル船の渡航も、王直が掌握した後期倭寇の貿易ネットワークに便乗したものと捉えられる。
 そして平戸を始め、横瀬浦、福田、長崎、口之津、志岐など、九州西岸航路沿いの港町がキリシタン布教の拠点となっていったのは、ポルトガル人の貿易活動の展開に沿ったものである事は明らかである。
 「港市」平戸とその周辺には、大洋路の貿易活動に伴って外来の宗教・信仰がもたらされてきた歴史があるが、世界各地の港市でも、来航者は納税と引き替えに港市の支配者から財産の保全と信仰の自由を保障されている事から、平戸でもこうした港市の不文律に従って様々な宗教・信仰が受容されており、キリシタン(カトリック)もこうした港市のあり方の中で捉える必要があるのである。

1.平戸地方のキリシタン時代

(1)港市平戸における布教

①ザビエルの布教
ザビエルの布教フランシスコ・ザビエルの像

ポルトガルやスペインの海外進出活動に伴い、ヨーロッパ以外でカトリックの布教を進めたのは、1540年に設立されたイエズス会である。ポルトガル人はすでに1517年には中国に到達していたが、イエズス会の創設者の一人であるザビエル神父は東洋での布教を志し、インド洋世界とシナ海世界の接点であるマラッカに到着する。そこでヤジロウという日本人に出会って日本での布教を志し、1549年にトルレス神父、ジョアン・フェルナンデス修道士とともに中国人のジャンク船に乗って鹿児島に上陸する。鹿児島で布教を行う間、天文19年(1550)には平戸港にポルトガル船が入港したという情報に接し、同年10月頃平戸を訪れている〔トルレス1551〕。当時平戸は、平戸松浦氏の第25代にあたる松浦隆信(道可)が治めていた。ザビエル自身は平戸に20日間程滞在した後、フェルナンデス修道士を伴って京都を目指す布教の旅に出るが、トルレス神父は平戸に残り布教に努め、4カ月後ザビエル神父達が帰還するまでに宿主の谷口トメの親族らを改宗している〔日本史1.4〕。しかしその後ザビエル神父はインドに帰還し、残ったトルレス神父とフェルナンデス修道士は豊後と山口で布教に努めている。

②ガーゴの布教と籠手田安経、一部勘解由の入信

天文21年(1552)豊後に入港した定航船で、ガーゴ神父、アルカソヴァ修道士、シルヴァ修道士が到着する。翌年、トルレス神父の布教でキリシタンとなった者の要請と、ドゥアルテ・ダ・ガーマ指揮のポルトガル船が平戸に入港して聖務の必要が生じ、ガーゴ神父とフェルナンデス修道士、日本人キリシタンの説教師パウロが平戸を訪れる。ガーゴの平戸滞在は天文22年(1553)9月の僅か15日間だったが、多くの者と共に「三人の主だった貴人」を入信させており〔アルカソヴァ1554〕、その一人は生月島南部、度島、平戸島西岸に領地を持つ籠手田安経(ドン・アントニオ)だった〔ガーゴ1559〕。
 籠手田氏について、「大曲覚書」には「又御親類衆の事、籠手田榮法名は榮正と申候。是は弘定の三番目の御舎弟也。生月の山田殿の跡、田平の籠手田知行也。又多久(度)島は山代殿の一跡、大野右馬助殿の一跡を御知行被成候」とある。『日本史』には「すなわち彼(松浦隆信)は、ドン・アントニオ(籠手田安経)に多大の恩義を蒙っていることを念頭に置いていた。すなわち彼は、父が死去した時にはまだ子供であり、家臣たちは、彼の親族にあたる別人を殿にしようと望んだが、ドン・アントニオの父ドン・ゼロニモ(籠手田安昌)はその連中を制し、そして彼を育ててその位につけるまでにしたのであった」とあり〔日本史1.18〕、松浦隆信に対し相当の影響力があったと推測される。なお「生月人文発達史」によると、第22代松浦豊久(天翁)の子・栄が、寛正年間に現田平町の籠手田、荻田、伊吉、梶野村の火立浦などを領した田平氏の婿養子となり、応仁年間に籠手田以外の所領を兄の峰昌に譲り、籠手田姓を名乗るようになるが、さらに子が無い山田四郎景貞の跡目を継ぎ、同氏の所領である生月島南部の山田村を領したとされる。
 なお「三光譜録」40には、籠手田安経らの入信について「エキレンシヤ(宣教師)の云ふ此大業(石火矢)望あらば我宗旨に成給ふべし、無たには教がたしと申ければ、頓て籠手田左衛門、一部勘解由を御名代として南蛮の宗門にぞ被成ける。依之ハラカンの射法不残傳へしかば、日本一の火業御代々平戸へ傳はり今御重宝の第一とぞ成ける」とあり、石火矢(大砲)の技術習得が目的だったとしているが、同史料が後世(禁教以降)に書かれた点を考慮する必要がある。
ガーゴ神父は、ドゥアルテ・ダ・ガーマの船が再入港した弘治元年(1555)にも平戸を訪れて布教を行っており、同年9月には信者は500人を数えている〔ガーゴ1555〕。その時には、松浦隆信もインドの管区長に宛てた手紙を定航船にことづけており、その中で「予がキリシタンになるのも目前のこと」とまで言い、布教を容認する姿勢をみせている〔平戸国主1555〕。だがこうしたキリシタン勢力の発展は、キリシタン以外の者にとって脅威と感じられる部分もあったようだ。弘治3年(1557)9月、平戸に入港した2隻のポルトガル船の船員に対する聖務を行うガーゴ神父を助けるため、豊後からヴィレラ神父とギリエルメ修道士が平戸に到着する。ヴィレラ神父はその際に行われた盛大なミサの様子を書き記しているが、十字架に向かう行列の前面に40人の銃手が並んで幾度か銃を撃ち、港ではポルトガル船が祝砲を発している。こうした状況に「キリシタン一同は非常に感動し」、非キリシタンは「少なからず当惑」したとある〔ヴィレラ1557〕。こうした潜在的な脅威意識は、平戸での布教活動を次第に困難ならしめていき〔日本史1.18〕、次に紹介する籠手田領の一斉改宗を機に、既存宗教勢力との対立が顕在化する。

③籠手田領の一斉改宗
籠手田領の一斉改宗生月島と平戸島西海岸地域

弘治3年(1557)頃博多に移ったガーゴ神父に代わり、ヴィレラ神父が平戸地方の布教の責を担う。彼はゴアでイエズス会に入り、日本に来た時はまだ6カ月しか経っていなかったが、「彼の(人々の)霊魂を改宗させたいとの熱意は非常なもの」だった〔日本史1.18〕。その現れとして彼は永禄元年(1558)頃、籠手田安経と諮り、領民の一斉改宗に着手する。改宗が行われた籠手田領の地名として度島、生月、獅子、飯良、春日などが挙がっており〔日本史1.18〕、2カ月間で計1,300人が入信している〔ヴィレラ1559〕。しかしその際、既存の寺院から仏像を取出して教会に転用し、取り出した像は火をかけて焼き払うという過激な行為があり〔ガーゴ1559〕、これが仏教など既存の宗教者の激しい反発を招き、浄土宗のある僧侶はキリシタンに宗論を挑んでいる〔Gフェルナンデス1560〕。特に当時、平戸地方で大きな影響力を持っていた安満岳、志々伎山の仏教勢力は、反発勢力を糾合し、松浦隆信にヴィレラの処罰を要求し、それが叶わない場合には反乱が起こる恐れがあると脅迫する。隆信はそれを容れ、その年の定航船の出港後ヴィレラ神父を博多に追放し教会を閉鎖するが、仏教勢力が要求した教会の焼却と信者の棄教までは踏み込まなかった〔日本史1.18〕。この対応には、キリシタン勢力との決定的な対立を回避しようとする隆信の姿勢がうかがえる。しかし、平戸地方のキリシタン、非キリシタン間の対立は顕在化し、十字架の引き抜きやキリシタン信者の領外脱出などが頻発する〔Jフェルナンデス1559〕〔Gフェルナンデス1560〕。なお宣教師が個々の住民に働きかけ入信する形を「個別改宗」、入信した領主の承諾のもと領民を集団で改宗していく形を「一斉改宗」とすると、1558年の籠手田領の改宗は、国内で行われた一斉改宗の中でも最早期の事例であり、キリシタン史上で重要な意味を持つ。なおこの一斉改宗の背景に、これまで東シナ海貿易を支配してきた王直の影響力の低下があると考える事もできる。王直は1557年に明に帰順するが、当初の約束と異なって逮捕された上、1559年に処刑されている。ポルトガル人の貿易活動や布教活動も当初は王直によるコントロールの下にあったが、王直の逮捕によって圧力も無くなった事で、一斉改宗の強行に繋がったと考えられるのである。
 ヴィレラ神父の追放に大きな役割を果たした安満岳の寺院について、当のヴィレラは次の様に記している。「私が一年間住んだ平戸の町は土地が峡小であるが故に僧院はさほど多くはない。ただし、同地にある僧院は収入が多く、中でも安満岳と称する僧院はほぼ百名の仏僧を擁し、収入が多く立派である。腐らぬ香りのよい木材で建てられており、創建以来およそ四百年を経ているが、ほとんど新築のように見える。この僧院に従属する村が多数ある。同寺の仏僧は説教をせず、ただ俗人らに瞑想を行なわせ、彼らが救いと呼び、私が破滅と呼ぶ彼らの宗旨を説く。彼らは豪奢な生活を送り、望み通りの暮しを得ている」〔ヴィレラ1571b〕。これを読む限り、当時の安満岳は宗教的権威のみならず、多くの村を領有する世俗的な権力を有していたことが窺える。
ヴィレラ神父の布教で多くの信者が生じたにも拘わらず、その後暫く、平戸地方には宣教師が居ない状態が続く。そうした中、永禄2年(1559)6月に平戸に来航したポルトガル人の船は、司祭が放逐されて教会堂が閉鎖されている状況を聞き、ガーゴを博多から召還しない限り入港しない姿勢を取る。その結果、ガーゴ神父とギリエルメ修道士が平戸に来るが、閉鎖された教会に留まる事は許されず、ドン・ジョアン(一部勘解由)の家に滞在してポルトガル人のためミサを行った後、平戸を後にしている〔日本史1.18〕。
 また1558~60年にかけての頃、平戸で、非キリシタンの日本人が商売物の生糸の束でポルトガル人を殴り、ポルトガル人も日本人を追いかけて顔を殴る争いが起きる。この事件に激昂した多数の非キリシタンの日本人が武器を携えて集まり、ポルトガル人を悉く殺すべしと叫ぶが、対峙した地元のキリシタン達は、ポルトガル人を殺す前にまず自分達を殺せといい、同時に信者の家を回って結集を図っている。その結果、集結していた非キリシタンも解散し事件は鎮静化するが、この騒ぎの際、日本人キリシタンはポルトガル人に、この事件は今やキリシタンに係るものとなったので、ポルトガル人は外出しないよう忠告している〔Gフェルナンデス1560〕。安野眞幸氏によると、ポルトガル人と日本人キリシタンは「泊まり客人」と「船宿の主人」の関係で、後者が前者を庇護する形が見て取れるとしている(安野1992)。
 永禄4年(1561)には5隻のポルトガル船が平戸に入港する。7月には博多を経て到着したアルメイダ修道士が度島に入り、当時500人程の島民のうち最後の8人に洗礼を授けて度島における一斉改宗を完了しており、当時島には既に教会が存在したとある。引き続き生月島に渡るが、当時未改宗の一部領を含む島民2,500人のうち800人がキリシタンだったとされる。また山田とおぼしき場所に600人を収容できる大きな教会があり、この時この教会から1レグア(約4㌔)離れた集落に新たな教会が建てられたとある〔アルメイダ1561〕。この集落は、山田からの距離と、後のフェルナンデス修道士の報告〔Jフェルナンデス1566〕に「サカイメと称するドン・アントニオの土地」とある事から、堺目の事と推測される。さらに平戸島側でも獅子、飯良、春日で教会が建設され、飯良と春日では全住民がキリシタンだったと報告されている。一方、平戸では松浦隆信から教会を建てる許可を得られなかったため、定航船に聖画を飾って信者に見学させたり、1人の信者から提供された家屋を仮教会として聖務を行っている〔アルメイダ1561〕。このように当時、平戸では布教の推進が困難になっており、布教はおもに籠手田領で進められている

④宮の前事件とポルトガル船の平戸入港拒否
宮の前事件とポルトガル船の平戸入港拒否宮の前事件の場所には、
現在、説明板が設置されている。

しかし永禄4年(1561)に平戸で起こった宮の前事件で、ポルトガル人と平戸の非キリシタン間の対立は頂点を迎える。前述したようにこの年、平戸には5隻もの多数のポルトガル船が入港していた〔アルメイダ1561〕。事件が起きたのは、「伴天連記」によると宮の前という場所とされ、かつて七郎宮という神社があった前の道である。『三光譜録』100にも「古より七郎権現は潮打際の磯辺なりしが、異国船入津しければ京堺の者共多く、今の長崎の如く不断居ければ、彼等共町屋を弘め海を埋め、今の如く七郎宮の前廣小路と成たり」とあり、七郎宮の前が広場になっていて市庭の場であった事を窺い知る事が出来る。七郎宮の祭神についても、宋~明代に航海守護の神として中国で盛んに信仰されていた招宝七郎である事が、二階堂善弘氏の研究で確認されており、七郎宮の門前で交易が行われる状況が、宋代まで遡る可能性を示唆している。
 宮の前事件の発端は、数名のポルトガル人と1人の日本人の間で起きた一枚の綿布を巡る争いだった。しかし今回は、助勢に入ったポルトガル船の司令官フェルナン・デ・ソウザ以下のポルトガル人13名が、松浦隆信の家臣達に殺害されるという最悪の結末となる。フロイスの『日本史』によると隆信は事件を軽視し、犯人を処罰することも懲戒することもなかったとされ、ポルトガル人はこの事件と処置を大層怒り、平戸への入港を思いとどまる事になったとされる〔日本史1.40〕。一方、日本側の資料である「伴天連記」によると、ポルトガル人「しによろ」と日本人の間に口論が起き、伊藤甚三郎という者が仲介に入るが、「しによろ」は言葉が分からず誤解したまま伊藤に斬りつけ、負傷した伊藤も反撃して「しによろ」を討ち捨ててしまう。他のポルトガル人が騒いだのを聞きつけて船からも応援が出てきたところ、平戸の武士や町人がとり囲んで戦い、ポルトガル人多数が死傷することになったという。最後には「平戸のしゅごどの」(松浦隆信)が日本人側に使者を立てて解散させているが、その際使者が「みなとをたのみて来りける船を、なさけなくせん(戦)ずる事、異国の聞えも然るべからず、ただ喧嘩を留まれ、しきりにすすめたらんものは、名字けつたいたるべし」と言った事が注目される。つまり港に来た貿易船を攻撃する事は、外国に悪い評判が伝わることとなり、以後の貿易にとり重大な障害になると説いており、『日本史』の記述と異なり、松浦氏は仲裁に入っている事が窺える。このことから、入港した貿易船や商人の安全は港市の王が守るという不文律が存在したことがうかがえる。
 なお松浦隆信は当時、司祭との融和を図ってキリシタンの迫害を止め、仏僧らの反対も退けて(平戸での)教会の建設に同意していたというが〔サンシェス1562〕、アルメイダ修道士は既にこの時、大村領の横瀬浦の測量に着手しており、寄港地の変更はイエズス会側の規定方針だった〔日本史1.40〕。なお岡本良知氏は「殊にこの六一年に五艘も渡来したとすれば、平戸の町に多数のポルトガル人が上陸し、宗教上商売上のみならずその他の種々のことに就て両国人間に衝突・紛争が生じたに違ひない。それは一面に於て実に平戸の外国貿易港としての繁盛と、また領主松浦氏のそれに対する政策の適否を物語るものでなければならない」とする(岡本1942:374)。なお前回の争いの時のように、在地のキリシタンがポルトガル人の助勢に結集しなかったことについては、事件の経過が迅速に過ぎたことが大きいようにも思われるが、安野氏は、この事件の記述が宣教師報告に少ない事にも注目し、当時、イエズス会と日本人キリシタンからなるグループと、ポルトガル商人のグループの間に対立があったのではないかと推測している(安野1992:98)。
西彼杵半島先端部にある横瀬浦は、南海路における平戸の次の寄港地だったと推測され、平戸の利用中止に伴い来航するポルトガル船の代替港になったと考えられる。大村の領主である大村純忠は横瀬浦開港に際し、領内での教会建設、横瀬浦と周辺地のイエズス会への譲渡、許可なく異教徒を横瀬浦に居住させない事、入港するポルトガル船に対する10年間の十分の一税の免除等の好条件を呈示しており、イエズス会の貿易関与が明確に見て取れる。一方、豊後、博多、都などからと思われる移住者で横瀬浦の戸数は漸次増加しているが〔アルメイダ1563〕、それは相対的に平戸の海外貿易港としての衰微を示している。
永禄5年(1562)末、トルレス神父が告白を行うため平戸地方を訪れている。当時ジョアン・フェルナンデス修道士が生月もしくは度島にいたが、アルメイダも横瀬浦からやってきて告白のための準備を整えている。トルレス神父は12月に大村領の横瀬浦を発し、使徒聖トマスの祝日(12月21日)前夜の真夜中に平戸に到着する。その後、生月島、度島などで聖務を行っているが、その間フェルナンデスを獅子、飯良、春日に遣わし、信者に生月の神父の所に告白に来るよう伝えている。その際に飯良と、獅子と飯良の中間にあるウシワキ(大石脇)に十字架が建てられ、1563年1月23日には生月で、日本でこれまで建てられたもので最も美しい十字架が建てられている〔Jフェルナンデス1563〕。なおトルレス出立後、アルメイダは横瀬浦に向かい、平戸地方にはフェルナンデス修道士のみが残って聖務を行っている〔アルメイダ1563〕。
永禄6年(1563)6月末頃に横瀬浦に入港した定航船で、フロイス神父、バプティスタ(モンテ)神父、ヴァス修道士、ゴンサルヴァス修道士らが到着する。その事が平戸に伝わると、籠手田安経と奥方は、神父が不在だった平戸地方に1人遣わしてくれるよう懇願している〔フロイス1563〕。横瀬浦にも平戸地方から多くの信者が告白に訪れ、コンタツ(数珠)やヴェロニカを乞うている〔日本史1.47〕。しかし横瀬浦はこの年の8月、武雄の後藤貴明に呼応した針尾氏の攻撃にあって灰燼に帰し、貿易港としての機能を喪失する。同地にいたトルレス、アルメイダ、ゴンサルヴァスは失意のうちに肥後の高瀬に向かい、フロイスは籠手田安経が遣わした船で度島に向かうが、恐らくはキリシタンに対する反発が強い平戸を避け、全住民がキリシタンの度島を選んだと考えられる。フロイスは管区長クワドロスから、平戸地方で活動を行うよう指示を受けており、非協力的な領主のもとにあるとされた当地の信者の救済を心に決めていたが、到着後熱病に苦しむこととなり、追い討ちをかけるように12月1日には度島の教会が火災で焼失し、さらに翌1564年の灰の水曜日に起きた平戸の大火では、籠手田安経の屋敷、教会(礼拝堂)、蔵が焼失し、フロイス自身も所持していた聖遺物を失っている〔フロイス1564〕。
永禄7年(1564)、かつてヴィレラ神父の追放に関与した安満岳の仏僧の頭領が、戦場にいる籠手田安経に領地の割譲を要求し、それを断られると報復として籠手田領の家屋を焼き討ちする事件を起こす。籠手田安経は松浦隆信に対し、もし仏僧らを罰しなければ、兵を率いて戦場を離脱し仏僧らを討つと主張し、隆信も彼の言を容れて仏僧らの領地を取り上げ、全員を追放している〔フロイス1564〕。キリシタンに取っては大きな脅威が無くなることになったが、平戸松浦氏に取っても、領内で隠然たる勢力を保ってきた安満岳の仏教勢力を、弱体化させる良い機会になったと考えられる。

⑤天門寺の建設
天門寺の建設天門寺は現存せず、
現在、跡地として説明版が設置されている。

永禄7年(1564)7月、定航船サンタ・カタリーナ号とポルトガル人が指揮するジャンク船の2隻が到着し、平戸港から南に2里の、おそらくは川内と思われる海域に停泊する。両船は神父の許可無く入港することを望まなかったので、松浦隆信は度島のフロイスのもとに使いを出し、入港許可を与えることを要請するが、このことからもイエズス会宣教師による、貿易仲介者としての役割を見て取れる。船の司令官達も隆信に対し、司祭が平戸に入る事と、自分達の費用で城下に教会を建設する許可を与えるよう求めている。さらに8月には司令官ドン・ペドロ・アルメイダが指揮するもう1隻の定航船サンタ・クルス号が、大嵐の末辛うじて大村領のサン・ペドロ島(横瀬浦の港外)に到着し、その船からも情報収集のための使いがフロイスのもとに到着する。フロイス神父は豊後にいるトルレス神父と豊後国主の意向を受け、サンタ・クルス号に平戸へ入港せず口之津に向かうよう要請する。しかし同乗の商人達が反対し、結局同船は平戸港に入港しているが、盗賊の放火と略奪によって陸揚げした多くの財貨を失っている。なお同船にはフェゲイレド、コスタ、カブラルの3神父が乗船していた。その後の隆信との協議で司祭の平戸入りと教会建設が認められると、残りの船も平戸に入港する。聖バメトロメオの祝日(8月24日)祝砲が鳴る中、フロイス神父とフェルナンデス修道士も平戸に到着し、3隻の定航船からの寄付金を元に教会建設に取り掛かり、聖母生誕の祝日(9月8日)に完成してミサが行われた。この教会は、御受胎の聖母マリアに捧げられており、非キリシタンの日本人からは天国の門という意味の天門寺と呼ばれている。暫く後、フェゲイレドはトルレス神父のいる口之津に向かい、カブラルは度島の教会で聖務に就き、コストはフロイスと平戸に留まりポルトガル人らにミサを行うが、その後フロイスとアルメイダ修道士も口之津に出立する〔フロイス1564〕。
 この永禄7年のポルトガル関係船の入港については、宣教師が船の司令官に対して行う勧告が、松浦氏との交渉カードとして有効に働き、教会の再建と平戸に司教が入る許可を得るという結果に結びつく。こうした勧告行為についてフロイスは「平戸に住んでいる司祭は、定航船がシナから日本に来航するに違いない時期になると一艘の軽舟を沖合に出して、総司令官に日本における現下の状況を教えることにしていた。これは毎年行なわれたことで、総司令官はこうすることでどこへ行くべきか、どの地を避け、どこから逃げねばならぬかを知るのである」〔日本史1.63〕と述べているように、恒常的に行われていたことが分かる。ただサンタ・クルス号のように、こうした勧告を商人達が拒否する場合もあった事が分かるが、同船の積荷が放火と略奪で失われた事については、勧告を無視した結果、イエズス会-地元キリシタンの庇護が受けられなかったとみなす事もできそうで、フロイスが報告でそれを罰とする冷淡な扱いをしている事もそれを裏付けている〔フロイス1564〕。なおサンタ・クルス号への勧告に際し、フロイスがトルレスと共に豊後国主(大友宗麟)の名を出している事も注目に値する。

⑥一部領の一斉改宗
一部領の一斉改宗現在の壱部地区

永禄7年(1564)末、平戸地方にはコスタ、カブラル神父、ゴンサルヴェス、ジョアン・フェルナンデス修道士が滞在していた。12月には、カブラルとゴンサルヴェスが生月島の籠手田領に赴くが、降誕祭の最初の8日目に、島の北部を支配する一部氏の奥方(一部勘解由の姑)が、彼女の孫娘を入信させる用意があることを伝えてくる。
 一部氏は、籠手田氏とほぼ同格の家臣で、籠手田安経の実弟・勘解由(ドン・ジョアン)が婿養子となっていた。「生月人文発達史」によると、当主だった一部信賢(松浦隆信の弟)は21歳で死亡しており、息子が居ないため娘が家を継ぎ、勘解由を婿に迎えたとあるが、フェルナンデスの報告によると、実質的には未亡人となった信賢の奥方が取り仕切っていた。奥方は熱心な仏教徒だったが、期待をかけた娘(勘解由の妻)が病気になり、平癒を願って寺院の修理や新築をしたにもかかわらず死んでしまった事で信心が嫌悪に変化し、婿である勘解由の意見を聞き入れ、4歳になる唯一の孫娘共々全ての家人をキリシタンにすることを決心する。カブラルは早速、一部氏の館に赴いて孫娘に洗礼を授けると、奥方自体も洗礼を希望し、さらにその領内の者にも布教を行う事を求めている〔Jフェルナンデス1565〕。こうして一部領の一斉改宗が実現するが、降誕祭からの日程を計算すると永禄8年(1565)新春の頃と思われる。
 カブラルはフェルナンデスとともに、数日のうちに一部領の2村で550人を改宗させる。この2村については、生月島の壱部と元触である可能性が大きい。神父達は領内の僧侶と宗論を行った結果、僧侶もキリシタンとなるが、寺院を教会に転用してその管理を委ねている。また十字架を建てて、その下に信者の墓所を定めているが、キリシタンとなった子供達は、短期間のうちに祈りを覚えたばかりか、異教徒であった先祖の墓地を一物も遺さず破壊したという。なお1565年春には平戸で慈悲の組の組頭が4名選ばれており、信者が組に分かれて組織化されていた事が分かる〔Jフェルナンデス1565〕。同年末には、後述する福田浦海戦の影響もあって松浦氏とキリシタンとの関係が悪化するが、平戸や、籠手田氏・一部氏の領内では活発に布教活動が行われている。降誕祭の1月前(11月)にはトルレス神父以来行われていなかった告白がコスタ神父によって平戸で行われ、永禄9年(1566)1~2月(四旬節前)には生月島や平戸の西海岸を巡回している。記された行程を辿ると、生月(南部の籠手田領の事か?)堺目(籠手田領)一部(一部領)と巡り、平戸島に渡って根獅子(一部領)獅子(籠手田領)を巡り、度島に至ってから平戸に戻り、四旬節の諸行事を行っている。なお飯良や春日のキリシタンは獅子を訪れて告白している。また当時、聖週の聖務については2年前(1564年)から度島で行われてきたが、これについてフェルナンデスは「平戸には我が聖教の敵が多く、司祭がここに聖体を納めることに懸念を抱いていたのであり、起こりうる危険を避けるため、また、度島におけるような教会から十字架まで公けに苦行を行なうことは、当地(平戸)の十字架が町外にあって実行し得ないからであった」と説明している〔Jフェルナンデス1566〕。

⑦福田浦海戦とその影響

しかし永禄8年(1565)、平戸松浦氏が領内のキリシタンに対する疑惑を深める事件が起きる。1人のポルトガル人が4人のキリシタンとともに船で大村から平戸に向かっていたが、彼らは大村純忠から籠手田安経に宛てた書状を携えていた。宣教師報告を読む限り、共にキリシタンである事に起因する親愛の情のこもった書状だったらしい。しかし松浦隆信は、目下の敵との書状のやり取り自体に謀反に繋がるような危惧を抱き、船を捕獲し一行を全員惨殺する。平戸のキリシタンはこの仕打ちに驚き、自分達に対する迫害が加えられる事を恐れて教会に集まったが、結局それ以上の動きは無かった〔Jフェルナンデス1565〕。しかし隆信の嫡男・鎮信は、神父の従僕が掛けていたメダイを押しつぶす狼藉を行っている〔日本史1.63〕。
こうした平戸松浦氏の姿勢は、定航船に対する神父の勧告にも影響を与えたと思われる。平戸駐在のコスタ神父は、永禄8年夏頃に来航した定航船が平戸に入港する前に書簡を送り、先の松浦鎮信の狼藉を知らせた上で定航船を平戸に入港させないよう勧告する。司令官ドン・ジョアン・ペレイラはそれに従い、大村領の新しい港である福田に入港する。福田にはさらに別のガレオン船も入港したため、当季には平戸にポルトガル船が1隻も入港しない事態となる〔Jフェルナンデス1565〕。松浦氏側としては、前季の入港に際し、教会建設や平戸への司祭の復帰などを容認する譲歩をしたにもかかわらず、今季は福田に入港した事で大きな失望を味わったと思われ、福田のポルトガル船を攻撃する決定も、そうした感情に起因するものと推測される。こうした姿勢を取る以上、最早ポルトガル船と平和的かつ継続的な交易関係を維持することは不可能だが、この時期、松浦隆信にとってキリシタンの問題は、貿易による利得から、領国経営上の脅威という側面の方が大きく意識されるようになったと考えられる。先の大村純忠と籠手田安経との書簡のやり取りは、まさに領国内の大勢力が領国外の敵対勢力と結びつく危険を示していた。さらにこの時期までに進行した籠手田領、一部領の一斉改宗も、領国内におけるキリシタン勢力を著しく増大させた事で、大きな脅威と意識されたのだろう。
ポルトガル船攻撃に際し、松浦隆信は、平戸に定航船の絹を買付けに来ていた堺商人の協力を仰ぎ、彼らが所有する8~10隻の大型船を、自らの70艘の小船からなる艦隊に加えている。舷側が高いポルトガルの定航船を攻撃する場合、接舷しての切り込みや鉄砲での狙撃を行うためには、甲板が高い大型船の方が有利だが、それを裏付けるように、渡り板をほとんど定航船の舷の高さに達するほど高く設けたと記されている。
 この襲撃は籠手田安経には伝えられず、それゆえ彼と彼の家臣が艦隊に加わる事はなかった。松浦隆信としては相手がポルトガル船であることに加え、さきの大村純忠との書状のこともあり、知らせる事を躊躇したとも察せられる。しかし艦隊の準備は平戸の者の知るところとなり、平戸のコスタは襲撃の前日に、福田のペレイラとフェゲイレド神父に、平戸艦隊の襲来を知らせている。しかし同地のポルトガル人達は松浦隆信との友好関係を信じきっていて、コスタの忠告を本気にしなかった。しかし翌朝、忠告どおり平戸の艦隊が襲来してくると、彼らは錨泊させた定航船と小型ガレオン船、それに中国商人の数隻の船を一まとめにして防御体勢を取る。これに対し平戸勢は8隻の大船で定航船を包囲し、鉄砲や堺で製作された大筒(大口径銃)で狙撃する戦法を取るが、それによって定航船側は砲術長など数人の死者を出している。さらに平戸勢の一部は、渡り板を使って船尾から船内に突入するが、撃退されている。一方ポルトガル側では小型のガレオン船が活躍し、大砲を駆使して堺の大型船を3隻撃破するなどの戦果を上げたため、平戸勢は最終的に退却を余儀なくされる。2時間の戦闘でポルトガル側は8人、平戸側は80人の戦死者を出し、平戸側は加えて120人もの負傷者を出している〔日本史1.63〕。
 この戦闘によって、平戸松浦氏やその家臣(キリシタンを除く)と、ポルトガル人との関係は修復不能な状態となり、その影響を平戸のキリシタンも蒙ることとなる。「だがそれ(海戦)以後、日本人たちは(ポルトガル人に対して)それまでずっと抱いて来たのとは異なった考えをもつようになり、肥州(松浦隆信)は彼らに対して(従来)よりもいっそう激しい憎しみを抱くに至った」〔日本史1.63〕、「彼(籠手田安経)とドン・ジョアン(一部勘解由)は我らの主が与え給うた勝利を非常に喜び、異教徒らはこれにより両人と我らを深く恨んだ。それ故、もし両人がいなければ、彼らは我らと教会に対してすでに復讐を遂げていたように思われる」〔コスタ1565〕、「そして武装船隊がひどく打撃を被って帰って来ると、異教徒たちはドン・アントニオおよび教会に対する幾多の偽証を並べたて、彼らに対する反感を深めた」〔日本史1.63〕。その影響は間もなく具体的な事件となって現れる。福田から平戸に食料を送っていたキリシタンの船が、平戸の10艘程度からなる艦隊に遭遇した際、平戸船であるにもかかわらず略奪にあい、聖母被昇天像を含む財貨や武器のことごとくを奪われる事件が起きる。さらにその像を非キリシタンの加藤氏が受け取り、墨を塗るなど不敬を働いているという話がキリシタンに伝わる。加藤氏は平戸松浦氏の有力な家臣であり、いわば反キリシタン勢力の代表者のような存在だったが、憤激する籠手田安経と一部勘解由に対しコスタ神父は自重するよう諭し、「もし彼らが件の侮辱に対して報復しようと欲すれば、領主と異教徒らは彼らを謀反人と見なすからであり、また、当地の異教徒(の勢力)はキリシタンの三倍なるが故に、彼ら(両人)とキリシタンをことごとく滅ぼしうるのであり、彼ら一同の生命のみならず、当地の霊的な幸福も失われることになるからである」と、理由を述べている。しかしこの問題はその後も尾を引き、略奪を受けた船に乗っていた籠手田の家臣が、略奪を行った側の者と道で出会い、彼の刀剣を奪うという事件が起きる。加藤氏は反キリシタンを鮮明にしている松浦鎮信と結託し、夜半、教会を破壊し、籠手田氏を襲撃すべく家臣を集めはじめる。キリシタン側も対抗して夜半60名近くが武装して集結し、度島や生月からも家臣が到着し、諸聖人の祝日(11月1日)前夜に籠手田氏の屋敷に籠って加藤氏らの軍勢の来襲を待ち受けた。しかし加藤氏達は彼らの覚悟を見て襲撃を断念している〔Jフェルナンデス1566〕。
永禄9年(1566)の復活祭の8日後、度島にいるコスタ神父を籠手田安経と一部勘解由が訪ね告白を行っているが、彼らはその後、平戸の軍勢とともに平戸から4里の所にある敵の城を攻撃に向かっている〔Jフェルナンデス1566〕。これは相神浦松浦氏が籠もる飯盛城の攻略戦を指すと思われるが、この年、同氏は降伏し、松浦隆信は自分の三男を入嗣させ、日宇・早岐・佐世保・針尾・指方の諸村を領国に収めている。この勝利によって平戸松浦氏の一族間における支配的地位がほぼ確定したと思われるが、前年の福田浦海戦の敗北によって自らポルトガル貿易の前途を閉ざした事を考え併せると、この頃から平戸松浦氏は「港市の王」という性格を脱し、領土を基盤とする戦国大名として発展する方向にシフトしたと捉えられる。
またこの年、五島で平戸松浦氏の義兄弟が起こした反乱を援けるため、松浦氏は200艘からなる大艦隊を整えるが、籠手田安経はその司令官を務めている。艦隊は多数の鉄砲を装備し、五島領の最初の島(宇久島の事と思われる)に上陸して数カ所の集落を焼き払ったが、城を攻めないまま25日後に撤退している。他国の軍勢が平戸領を荒らしたため召還されたとされるが、五島氏も報復のため100艘の船を整え、多くの食物を産する平戸領の一島(小値賀島と思われる)を攻撃している〔アルメイダ1566〕〔日本史1.71〕。籠手田安経がこの攻撃を指揮している事や、先の飯盛城攻めにも従軍している事などを見ると、平戸松浦氏の反キリシタン的姿勢にも拘わらず、軍事面においては依然協調関係にあることが分かる。特に籠手田安経が艦隊の指揮を取っている事実は、彼が水軍の指揮に卓越した指揮官であり、彼自身有力な水軍を率いていた事を示している。

⑧布教の停滞

永禄10年(1567)、平戸地方にはコスタ神父、ゴンサルヴェス修道士、ジョアン・フェルナンデス修道士らが駐在していたが、1550年頃から活動してきた古参のフェルナンデスは6月に平戸で、多くの人に惜しまれつつ亡くなる。またこの頃根獅子の元僧侶で改宗したトメは、婚姻問題が原因で領主の婦人(一部勘解由の義母と思われる)の命令で処刑されている〔ゴンサルヴェス1567〕。永禄12年(1569)の聖ペテロとパウロの祝日の前夜(6月28日)定航船が福田に入港した際、天草の志岐にいるトルレス神父は各地から神父を集ているが、平戸からはコスタが出席している〔某ポルトガル人1569〕。なお同年、平戸地方にはコスタとサンシェス修道士が駐在し〔ヴァス1569〕、翌元亀元年(1570)はアルメイダ修道士が20日間ほど滞在し説教を行っている〔アルメイダ1570〕。
1570年代に入ると、宣教師報告に載る平戸地方の記事は極端に少なくなる。元亀2年(1571)当時この地方には5,000のキリシタンと14の教会があり〔ヴィレラ1571a〕、天正4年(1576)にはゴンサルヴェス神父とサンシェス修道師が駐在しており〔フェゲイレド1576〕、天正5年(1577)頃にはゴンサルヴェスによって猪渡谷で布教が行われ〔ゴンサルヴェス1577〕、ロペス神父が到着している。天正6年(1578)には4人の神父が乗船した定航船が壱岐に入港し、ゴンサルヴェスが接触している〔プレネスティーノ1578〕。この時期、既に改宗している地域では「司祭2人が駐在し、ほとんど絶え間なく同地の島々を巡ってキリシタンを尋ね、告白を聴き、少数とはいえ新たに洗礼を授けている」〔フロイス1578〕と、成熟した布教活動が行われている事が分かる。しかし集団での改宗については猪渡谷での報告があるだけで、「この領主(松浦隆信)は我らの教えに反対しているから、同地では改宗するものがきわめて少なく、司祭らも教えを説いてキリシタンを保ち、忍耐しつつ時を待つより外にすることがない」〔1579年度年報〕、「司祭2名が駐在する平戸地方では、キリシタンの告白を聴き教化するうえで多大な成果を収めたが、同地の領主の反対と妨害により改宗については何ら成果が上がっていない」〔1580年度年報〕とあるように、全体的には布教は頭打ちとなっており、記事の減少もこうした状況の反映だと思われる。この理由は平戸地方における布教が松浦氏の反対にあって籠手田氏、一部氏の領内などに限定された上、両氏の領内での改宗は既に完了しつつあったからに他ならない。
なお永禄11年(1568)には松浦隆信が隠居し、息子の鎮信が家督を嗣いでいる。元亀3年(1572)7月、松浦隆信の子・信実は兵を率いて壱岐の日高氏を助けて対馬の宗氏の軍勢を破るが、その際、宗氏の敗兵を乗せた兵船が平戸方面に漂流する。松浦鎮信はそれを討つべく一部勘解由、籠手田安経らとともに兵船で出陣するが、鎮信の船が激浪のため大島神浦に止まっている間に、一部、籠手田両氏の手勢は宗氏側の3隻の兵船を撃破している。海戦に長けた両氏の戦ぶりが窺い知れるエピソードだが、「三光譜録」57には、鎮信は顛末を報告した両氏に対し、今日の合戦に遭遇できなかった事を残念に思うが、特に目前の敵に気づかぬうちに両氏に手柄を上げられ父(隆信)に言うべき事もないと言って残念がったと記されており、「生月人文発達史」では、この事件が鎮信の感情を害し後日の禍につながったとしている。

(2)布教後退期

①籠手田安経、一部勘解由の死去

1580年代に入ると、日本国内ではヴァリニャーノの布教改革で、教育機関の設置や信心組の結成など、キリシタン信仰の新しい動きが起きるが、平戸地方では信仰の前途を憂慮させる出来事が続けて起こる。まず天正9年(1581)の降誕祭を間近に控えた頃(12月)、キリシタン領主の籠手田安経が扁桃腺炎で死亡する。「彼の死はキリシタンならびに異教徒の双方から惜しまれただけでなく、彼がキリシタンであることを喜ばなかったが、その勇気と智慮により非常な好意を寄せていた平戸の領主からも惜しまれた。そして彼および平戸のキリシタンならびに異教徒の貴人が皆葬儀に列席し非常に荘厳であった」〔1581年度年報〕。さらに籠手田安経の実弟でもう1人の有力なキリシタン領主である一部勘解由も、兄の死後1585年迄の間に死亡している〔1585年度年報〕。
天正12年(1584)8月、スペイン領フィリピンのマニラからマカオに行く途中のポルトガル人が所有するジャンク船が平戸に入港しているが、松浦鎮信はスペインをポルトガルに代わる貿易相手として期待し、大いに歓待している。同船にはアウグスチノ会のマンリッケ神父とロドリゲス修道士、フランシスコ会のポーブレ、ベルナール修道士が乗り込んでいたが、鎮信はフィリピン長官宛に毎年商船を派遣し、同時に宣教師を派遣するよう書簡を託している。しかし結果的にフィリピンからスペイン船が来航することはなかった。
 天正14年(1586)3月、イエズス会副管区長コエリヨ神父が平戸を訪れた時、当地にはバフティスタ、サンチェス両神父が駐在していたが、予想に反して松浦隆信は副管区長を歓迎し、彼の乗船に税を課さないで通過させている〔フロイス1586〕。その姿勢が影響してか、この年21年振りに平戸に定航船が入港するが、皮肉にも戦乱(島津氏の九州制圧と秀吉の九州征伐)のため商品が売り捌けないまま冬を越すこととなる〔フロイス1588〕。この定航船の平戸入港は、長崎に入港させようとするイエズス会の意向を司令官ドミンゴス・モンテイロが無視したものだった。しかし折しも進行していた松浦氏と大村氏の和睦協議の中で、この定航船の関税等の利益で勢いを得た松浦氏側が、占領していた大村領の返還をしぶったため、そのまま合意になったとされ、またこの時の協定で両氏の間で婚姻が取り決められ、翌天正15年(1587)大村純忠の娘(洗礼名メンシア)が松浦鎮信の長子・久信に入嫁している。なお1587年9月の聖母生誕日(8日)の前夜、平戸でバプティスタ神父が惜しまれつつ亡くなっている〔フロイス1588〕。

②伴天連追放令
伴天連追放令伴天連追放令のキリシタン禁制定書
(松浦史料博物館 所蔵)

天正15年(1587)、博多に入った副管区長コエリヨは、九州征伐で同地に滞在していた関白・豊臣秀吉と会う。この時秀吉は、自分の目でポルトガル船を見たいと欲し、平戸に入港している定航船を博多に回航させる事をコエリヨを通して要請する。そのため、定航船の司令官(モンテイロ)は博多にやって来るが、定航船自体は航海の危険等があって回航できない旨を弁明する。秀吉はこれを聞き入れ、司令官に対しサンティアゴの祝日(7月25日)の前日に船(平戸)に戻る許可を与える。しかしまさにその夜、宣教師やキリシタン達を絶望に陥れる法令-伴天連追放令-が発令される〔フロイス1588〕。法令のうちキリシタンに直接関係する条項を、次に掲げる。
「一.日本は神国たる処、きりしたん国より邪法を授け候儀太だ以て然るべからず候事
一.其の国郡の者を近付け門徒になし、神社仏閣を打破るの由、前代未聞に候。国郡在所知行等給人に下され候儀は当座の事に候。天下よりの御法度を相守り、諸事其意を得べき処、下々として猥なる義 曲事の事
一.伴天連、其の知恵の法を以て、心ざし次第に檀那を持ち候と思し召され候へば、右の如く日域の仏法を相破る事曲事に候の条、伴天連の儀、日本の地にはおかせられ間敷候間、今日より廿日の間に用意仕り帰国すべく候
一.黒船の儀は商売の事に候間、各別に候の条、年月を経、諸事売買致すべき事
一.自今以後、仏法のさまたげをなさざる輩は、商人の儀は申すに及ばす、いずれにてもきりしたん国より往還くるしからず 候条、其意を成すべき事已上
 天正十五年六月十九日 (松浦家文書)」
法令の要点は、国内でのキリシタンの布教を禁じ、宣教師は20日以内に日本国内を去るように命じるものである。この法令をコエリヨに伝えた使者は、秀吉の怒りをこれ以上深刻にしないようにと忠告する。コエリヨは、定航船はこの先6ヶ月は出帆せず、船が無ければ退去も出来ないと弁明した。それに対し秀吉は、船が入る平戸に司祭全員が集合し、船が出帆するまでの間、そこに留まる許可を与えた。コエリヨは司令官達とともに平戸に戻り、そこから全国の宣教師宛に秀吉の命令を伝えるとともに、善後策を協議するため平戸に集まる事を促す手紙を発送している。殆どの宣教師はこの指示に従い、在地の教会財産を信頼できるキリシタンや秀吉から派遣された者に引渡して平戸に集結している。
一方、受け入れ先となった平戸地方では、キリシタンの有力な庇護者だった籠手田安経、一部勘解由は既に亡く、その息子達の籠手田安一(ドン・ジェロニモ)と一部正冶(ドン・バルタザル)が後を嗣いでいた。彼らは幼少の頃からキリシタンの教えに親しんで成長した者達で、父親に劣らぬ信仰的熱意を持っていた。「ドン・アントニオの子であるドン・ジェロニモ(籠手田安一)は、その兄弟と共に、平戸において、少なからぬ努力と信仰心を示した。この場合は、息子たちの方であるが、彼らは平戸の領主〔常にキリシタン宗団の残酷な敵であった〕が、関白殿の迫害と布告を利用して、ドン・ジェロニモがその領内〔全員キリシタンである〕に有していた教会を取り壊し、その非常に古いキリシタン宗団を消そうと企てているのを知り、平戸にすべての親類、家臣を、そこに持っていた三百は超える多数の兵と共に公然と集め、全員が我らの主イエズス・キリストへの信仰のため死ぬこと、この地の教会とキリシタン宗団をつぶそうとするものに抵抗することを誓った。これにより平戸の領主も拘束され、まったくこれに手をつけることも住民に介入することもできず、司祭や修道士たちが平戸で集まっていた間、先方の大部分の者は、あちらの領内に引っ込んでいたのである」〔フロイス1588〕。この記述からフロイスの認識に「あちらの領内」とされる反キリシタンの領地と、それに対峙する、いわば「こちらの領地」とでも言うべきキリシタン側の地域(籠手田、一部領)がある事が分かる。このことは、平戸松浦氏の領国内におけるキリシタン領主の領地は、松浦氏の権限が及ばない独立領のような存在だった事を示しているが、それはキリシタン信仰に起因するばかりでなく、当時の平戸松浦氏の家臣が保持していた独立性に起因する部分が大きいと思われる。
 集結した宣教師達による協議会が開催されるにあたり、籠手田安一は300を越える兵を平戸に配し、反キリシタン勢力の介入を牽制している。協議会では次のような結論が出る。「我らはこのとおり、聖なる福音を宣布するため、またこの聖なる福音によってこの盲目なる異教世界に光りを与えるためにいとも遠隔の地から日本にやってきた。また言うまでもないことだが、我らはデウスの助けによりあらゆる危険に己が身を曝す意図と願望をもっている。他方、聖なる慈悲により我らはかくもおびただしい霊魂を浄化することで、今までの事業を繁栄させてきた。そこで、一同には次のように思われた。今こそ、血と死をもって我らの宣布する律法がいかに真実であるかを証明するにふさわしい時である。これで不信心のわが敵どもを納得せしめ、このキリシタン宗門の若き根は十分に根をおろすことになろう。またこうすることで暴君の残酷な脅迫とその禁令にたちむかう勇気を培えることになろう。そこで我らは次のような決断をくだした。イエズス会の会員は一人として日本を出てはならぬ」〔1588年度年報〕。この決定に従い、宣教師達は当座は平戸や生月島に身を置き、暫く後に担当地区に戻っていくこととなる。「司祭や修道士の大半は、平戸には(収容されるだけの)場所がなかったので、ドン・ジェロニモ(籠手田安一)領の一島に渡り、そこにあった藁葺きの一教会に落ち着き、その(教会の)一部を学院に、他の一部を修練院にあて、その中間をキリシタンたちがミサ聖祭に与かったり説教を聞く(場所とした)。このたびのこの結果は、こうした時期に自分たちの霊的指導と援助を得る絶好の機会となって、とりわけキリシタンたちにとっては喜ばしいものであった。それはただその島にとってのみならず、キリシタンがいる周辺の他の島々にとっても同様であった。学院と修練院が設置されている山田の教会では、そこからドン・ジェロニモの娘婿ドン・バルタザルの領内で一里あまり距てた同じ生月島にある壱部まで(のところ)に別の教会があって、そこには都の神学校が、かの地から来た司祭や修道士とともに置かれている。そこでは寒気の厳しさと、場所の不便さ、また必需品の欠乏から、大勢が種々の危険な病気に悩まされるに至った」〔日本史2.108〕。このように1587年には一時的に、生月島の山田の教会に大神学校と修練院が、壱部に至る地(堺目と思われる)の教会に小神学校が移されている。これらの学校が生月島に置かれたのは、キリシタン領主が支配し、住民も殆どがキリシタンであるが故に安全だと考えられたからだろう。なお伴天連追放令の発令後、籠手田安一が次のような決意を述べているのが注目される。「彼(籠手田安一)はいたるところで、大いなる勇気と熱心さをもって、もし何ぴとかがキリシタンに対して暴力を振るったり、教会や十字架に対して無礼を働くならば、自分も、兄弟、親族も全員こぞってかならずや一体となって(それに抗するで)あろう〔彼らの総数は千名近くになるであろう〕。そしてなんの異議もなく信仰の証しとして、キリシタンの名を擁護するために生命を擲つであろう、と言っていた。彼はそのことを司祭と語らうために教会に来たが、(次の)二つのうちいずれかを決行しようと覚悟していた。すなわち、一族とともに、デウスの教えのために死するか、それとも平戸が司祭たちや教会や秘蹟から見放される(悲しみ)に接しないために、たとえ封禄や所領を失っても、司祭たちとともにシナ(マカオ)へ赴くかであった。司祭は彼の熱意を大いに賞讃するいっぽう、時宜にかなった有益な助言を与え、その熱心さを加減させた」〔日本史2.99〕。ここで彼は、信仰のために死ぬか、封禄や所領を捨てて宣教師に同行しマカオに去るという決意を述べているが、その後の慶長4年の出来事を考える上でも意味がある発言である。
しかし伴天連追放令はその後空文化し、宣教師も従前通りの活動を続けていく事となる。平戸領にも4人の神父が残るが、ポルトガル船の出港後、平戸にあったイエズス会の住院と教会堂、十字架は破壊されてしまい、「平戸や五島の島々にはイエズス会員が幾人かいるにもかかわらず、はかばかしい成果が得られなかった。改宗もまったく行なわれていない」という状態になる〔1590年度年報〕。そうしたなか、天正18年(1590)7月23日にはカリオン神父が生月で急死し、一緒にいたマンテレス神父も解毒剤を飲んだが回復せぬままマラッカで死亡し、天正20年(1592)5月5日にもカルヴァリャール神父が病亡〔1591.92年度年報〕、同時期にフォルナレッティ神父も体調を崩し翌年死亡しているが、相次ぐ神父の死亡には平戸松浦氏による毒殺の疑いが持たれている。その一方で、籠手田安一は自領内の神父達を保護したばかりか、五島から追放された神父達を受け入れようと考えている〔1591.92年度年報〕。文禄5年(1596)には平戸地方に神父1、修道士1が駐在し、3,370名前後の信者の告白がなされている〔1596年度年報〕。
 なお文禄元年(1592)から慶長3年(1598)にかけて行われた文禄・慶長の役では、平戸松浦氏の軍勢は小西行長の軍に加わって朝鮮で戦っている。「三光譜録」65によると、その中に籠手田左衛門栄や一部正冶が加わっており、前者は初戦の釜山・東莱城攻略戦で朝鮮側の大将・采衆賢を討ち取っているが、戦役のさなか籠手田一族のドン・バスティアンが戦死している〔日本史3.52〕。なお役の最中、籠手田領の島の教会を秀吉の家臣が解体し名護屋に運ぼうとしたが、賄賂を与えて中止させている〔日本史3.42〕。

2.平戸地方における禁教時代

(1)平戸松浦氏による独自の禁教

①籠手田氏・一部氏の退去

慶長3年(1598)に豊臣秀吉が没し、直ちに朝鮮半島からの撤兵が行われる。国内情勢も流動的となり、既に天下分け目の戦いへと動き始めた慶長4年(1599)、平戸地方のキリシタンの信仰基盤を揺るがす大事件が起きる。
 この年、1550年のザビエルの布教以来、キリシタン勢力と反目しつつも一定の関係を保ってきた松浦隆信(道可)が没する。その後を嗣いだ息子の松浦鎮信(法印)は、折しも京都で行われていた評定に出席していたが、平戸に居る息子の久信に、父親の仏式の葬祭にキリシタンである籠手田安一とその息子を参加させるとともに、平戸領にいる全キリシタンを棄教させ、従わない者を追放する事を指示する〔1599年度日本年報〕。困難な立場に立たされた籠手田安一と一部正冶は、棄教か戦うか選択を迫られるが、第3の選択として、鎮信が平戸に帰還する前に、信者を引き連れて自主的に平戸を退去し長崎に向かう途を選択する。「これ(退去)は極秘のうちに行なわれ、まさに彼らが乗船する夜のその時間にしかそれを彼らの奉公人たちにも言わなかった。また、他の場所にいた(籠手田)ドン・ジェロニモの兄弟に対しても、(乗船の)二時間前にしか知らせなかった。こうして、彼らは隔たったさまざまな場所にいたので、夜を合図として、かの(キリシタンの)殿たちは自らの奉公人や家族を伴って乗船したが、全員で六百人以上を数えたと思われる彼らの多くは、あまりに突然かつ予知しなかった出発のために、着のみ着のままで乗船した。そして、我らの主なるデウスが彼らに良い天候を賜わったので、一行は間もなく長崎の市に到着したが、それにはたいそう満悦した」〔1599-1601年日本諸国記〕。籠手田氏・一部氏の動向については松浦氏の家臣が監視していたにもかかわらず、1人の犠牲も出さずに長崎にたどり着いている。この事は両氏が輸送に充分な船と乗員を持ち、航海にも長けていた事を証明している。
退去した信者達は、長崎でイエズス会の援助を受けながら暫く過ごすが、その間に平戸領からはさらに200人程が脱出し合流している。その後信者は、小倉城を中心に豊前・豊後に所領を有していた細川忠興の招きに応じ、彼の領国に向かう。「のみならず彼(細川忠興)は、七百名にのぼる平戸のキリシタンたちがキリシタンの信仰を棄てぬようにするために、離村して長崎の田舎へ移住したことを知ると、彼らが故郷の地で得ていたよりは多くの扶持を毎年得させようと己が領国へ招いた。(中略)それから後、あまり日数をおかないで彼は七百名のこれらキリシタンたちが約束の扶持の所有を決めるために、筑前の国へ急いで行くことを望んだ」〔1600年度年報補遺〕、「彼らの中には多数の農民と漁民がいるので、生活の糧を得させるためにまた二、三の村落を委任した」〔1599-1601年日本諸国記〕。彼らが細川領に赴いたのは1601年頃と推測されるが、彼らが落ち着いたのが具体的にどの地かは分かっていない。なお長崎にそのまま留まった者も大勢いたようで、籠手田トメキュウニは1619年に長崎で殉教している〔1619年度年報〕。籠手田安一については、その後、筑前の黒田長政に仕え、聖域とされる宗像沖ノ島に上陸し、多くの神宝を持ち帰ったとされ〔1609,1610年度年報〕、慶長6年(1602)の黒田家の分限帳には船手衆の中に籠畠(手田)左衛門尉(三百石)と一双(部)次郎左衛門(二百石)の名が確認でき、沖ノ島行きも藩主の命による領国調査の一環ではないかと考えられる。籠手田安一はその後長崎に戻り、慶長19年(1614)に稲佐で病死したとされる。
なお「家系脉属譜」(松浦家文書)によると籠手田安一の妻と息子は、安一病死後平戸に帰り、藩主から録を与えられ江川喜兵衛を名乗る。彼は後に浮橋主水事件の際に重要な役割を果たす。
籠手田氏・一部氏の退去に繋がる松浦鎮信の禁教圧力については、政治的側面から検討する必要がある。戦国期の平戸松浦氏は、貿易収入に依存する港市の王から出発し、領土拡張の野心を持つ戦国大名化を進めていったが、永禄9年(1566)に相神浦松浦氏が降り、元亀2年(1571)に壱岐を領国に加える事によって版図拡大は一段落する。そうなるとこれまで対外戦争に際して軍事力を提供してきた、半独立の有力家臣の存在が、内なる脅威となっていく。こうした家臣には、もともと松浦氏と同格の松浦党諸氏の流れを汲む者や、松浦氏の親戚筋などがあったが、そうした勢力の最たる存在こそ、キリシタン領主である籠手田氏と一部氏だった。
 「三光譜録」によると、松浦鎮信は文禄2年(1593)朝鮮出兵の最中に妹の婿である志佐純意が統治していた志佐領を、その子・純高が陣中で病没したのに伴い事実上併合しており、的山大島を支配していた大島氏も江戸時代初期に姿を消しているが、籠手田氏・一部氏に対する棄教圧力も、有力家臣を抹殺・弱体化し、近世大名としての集権統治体制を作ろうとする松浦鎮信の行動の一端として捉えられるのではないだろうか。

②籠手田・一部氏退去後のキリシタン色の一掃

籠手田・一部氏の退去によりその旧領は平戸松浦氏の領地となり、松浦鎮信が派遣した代官が統治する事となるが、これによって旧籠手田・一部領のみならず、平戸にいたキリシタン達も最大の庇護者を失う事となる。
 鎮信はキリシタンの根絶を期し、キリシタン時代に廃絶していた寺社を復活する。「田舎廻」には、生月島山田に慶長10年(1605)に開山した修善寺について「當寺之処にハ以前ハ切支丹宗之者居住致し邪法を弘候を 式部卿法印様御禁制被成邪法之者御成敗被成候て居所ハ御焼討被成候て其□に修善寺御建立有之邪宗降伏国家安全之御祈祷所被成候段傳承候」という主僧の話を伝え、教会とおぼしき建物が焼打を受けた後に寺院が建立されたとしており、「家世脉属譜」(松浦家文書)によると同寺の住持を籠手田安一の弟・安清が務めている。「田舎廻」には、里免の住吉大明神についても祀官・金子丹下の咄として「邪宗之者御成敗被成候神社御建立被遊候時當所に祀官無之候私先祖今福より被召 當社祀官被仰付候」とあり、自分の祖先はキリシタンが禁止された後に今福から招かれて神社の祀官になったとしている。このように1599年を境に、キリシタン信仰は公的に否定され、信者は禁教の圧力に対処しながら信仰を続ける事を余儀なくされるが、このような外的環境の激変を以って、筆者は、平戸地方における布教時代が終わり、禁教時代が始まったと捉えている。しかしこれはあくまで信仰を取り巻く環境の変化に拠る区分であり、これ以降、籠手田氏・一部氏の旧領からキリシタン信仰が消え去った訳ではない。
 松浦鎮信は、確かに領国内におけるキリシタンの根絶を目指していたが、領民の大量脱出は領主にとって決して望ましい状況ではなかった。彼については「結局、これ以上彼ら(キリシタン)に嫌がらせをすることなく、信仰の件について彼らを苦しめないのが自分にとって有利であると理解した。しかし彼らがもし司祭たちから、国主が彼らに嫌がらせをせず、彼らにデウスの法に触れることをするよう命じないうちはこれ以上動揺せぬように、との伝言や書状を受け取らなかったら、彼らは脱出を切望し、それを試みずにはおかないところであった。以前ほど自由にキリシタンの務めを果たせぬため、たいそう慰めを欠いていたとはいえ、そのことによってキリシタンらは鎮まった」〔1599~1601年日本諸国記〕とあるように、理性的に領国経営を考えるなかで、それ以上の迫害を思いとどまったと思われる。確かに教会は破却され、もはや教会を場とする信仰形態は維持できなくなったが、信心組の組織は維持されており、長崎から宣教師が来訪して聖務を行う事はまだ頻繁に行われていた〔1606、07年日本の諸事〕。

③信仰指導者・ガスパル西玄可の処刑
信仰指導者・ガスパル西玄可の処刑西玄可ガスパルの墓

しかし慶長14年(1609)には、キリシタン信者の指導者である西玄可が逮捕・処刑される。彼はもともと生月島の領地を管理していた籠手田氏の家臣だったが、籠手田・一部氏の退去後、政治的な影響力は失ったものの、信仰については依然指導的な役割を果たしていた事が、次の記述から読みとれる。「彼は多くの霊的書物や信心書をもち、それを頻繁に読んでいた」「彼はドン・ジェロニモ籠手田〔安一〕の時代に〔籠手田が〕肉身上のことを治めたように、彼は霊魂上のことを司っていた。そして、緊急の場合、彼は何人かの幼児に洗礼を授けたこともあった」〔1609年度殉教報告〕。松浦鎮信は旧籠手田領である山田の奉行に井上右馬允を、館の浜に近藤喜三を配したが、当時は両地域ともことごとくキリシタンであったという。処刑の直接の原因は、近藤喜三の息子の嫁となっていた西玄可の娘が、棄教を拒んで実家に戻り、怒った喜三が鎮信に訴えた事による。西は井上右馬允に捕えられ、1609年11月14日の朝に斬首され、同時に捕らえられた妻と長男も斬殺されている。ただ西の埋葬はキリシタンの習慣に従って行われており、禁教がまだ徹底されていなかった事が分かる。なお西の処刑の少し前の9月20日(慶長14年8月22日)には、平戸にオランダ商館が開設されている。平戸松浦氏にとって、キリシタンと密接な関係があったポルトガルとの貿易関係は、過去の事になっていたのである。
 しかしその後も、長崎の宣教師等による巡回は続けられている。慶長16年(1611)にはジラン神父が逆風で平戸に引き留められた折りに成人30名が洗礼を受けている〔1611年度年報〕。慶長17年(1612)には、西玄可の継子で修道士のガスパル西が長崎で死亡しているが、この年の平戸に関する記事として、松浦久信未亡人の松東院(メンシア)が、洗礼を受けている息子(藩主・隆信)の病気に際し、キリシタンのミサと祈りを行い、病気が平癒した事から、松浦鎮信(法印)がキリシタンに対し好意を示すようになり、教会を一つ建てることを認めたという記述がある〔1612年度年報〕。しかしそれまでの鎮信の態度からして、にわかに信じがたい記述ではある。

(2)徳川幕府の禁教令以降

①禁教令の影響

慶長18年12月19日、家康側近の金地院崇伝が作成した伴天連追放文を起草し、将軍秀忠によって全国に発令される。これによってキリシタンは国法によって禁止となるが、それまである程度独自の判断でキリシタンを容認、禁止してきた諸大名は、これ以降幕府権力によって統一的に禁教政策を取る事となる。これによって宣教師の国内布教も表だって出来なくなり、密かに活動する事を余儀なくされる。翌慶長19年(1614)10月には宣教師や高山右近などの有力信者が長崎からマカオやマニラに追放され、12月には布教の中心だった長崎の教会や施設が破壊されているが、その際には大村藩とともに平戸の松浦隆信も藩兵を率いて警護や破壊作業にあたっている〔オルファネール1633〕。こうした一連の出来事で日本のキリシタンは大打撃を受け、教勢の後退を余儀なくされる。なお慶長19年には松浦鎮信(法印)が没し、既に慶長3年(1603)に早世した父・久信(泰岳)から藩主の地位を嗣いでいた松浦隆信(宗陽)が実権を握る事となる。
 元和元年(1615)頃、平戸は、大村、不動山、伊佐早(諫早)、五島、天草などと共に長崎の宣教師が管轄する地域に含まれていたが、宣教師は全体で神父7名、修道士5名に縮少している〔1615.1616年度年報〕。元和4年(1618)にはジョアン・バティスタ神父が五島に向かう途中、船が平戸に漂着し何人かの告白を聴いている〔1618年度年報〕。元和6年(1620)にはフェレイラ神父が久しぶりに平戸地方を巡回しているが、「すでに長年にわたって、我らイエズス会員の誰もこの地方を巡回していなかったので、一同から非常な熱意で歓迎された。涙をもって己が罪を告白した者は千三百名あった」と報告している〔1620年度年報〕。
 なお生月島では、島の司(奉行と思われる)が全島民の棄教を図ったのに対し、60名の信者が隊を組んで島の司の前に出て、「我らは幼少の頃からキリシタン宗門を信仰しています。我らは生きても死んでも、この信仰を離れません。それについても懇願も鎖も威嚇も止めて下さい。刀は研ぎ、火は燃やし、肉体は焼かれてもかまいません。我らはそのために出頭しているのです。感激のあまりに、或いは熱にうかされて言っているとは考えないで下さい。これは我らが心に定め予期していることです」と言い、さらに「自分たちを先に殺して下さい。子供や妻は後を追ってくるでしょうから」とも言い、この言葉に島の司も驚き、藩主も棄教させる事を思いとどまったというが、信者の言葉はのちの元和・寛永の殉教の状況をいやが応にも連想させる〔1620年度年報〕。

②平山常陳事件

元和6年(1620)夏、イギリスおよびオランダの艦隊は台湾近海でマニラから日本に向かっていた平山常陳が船長を務める御朱印船を臨検し、宣教師が乗っていたため拿捕した上、平戸に入港する。船長以下の船員と乗客、アウグスチノ会のスニガ、ドミニコ会のフロレス神父達は牢獄に入れられ、長崎奉行・長谷川権六が平戸に出向いて詮議した結果、入牢していた全員が死刑と決まり、1622年8月19日(元和8年7月13日)長崎で処刑されている。なお彼らが平戸にいる間、トミニコ会修道士による奪還が行われたが未遂に終わっている〔1622年殉教報告〕。なお「三光譜録」80では、この事件について「是阿蘭陀共忠節の始なりとぞ云ふ」と記述している。

③元和・寛永の弾圧
元和・寛永の弾圧中江ノ島

元和8年(1622)には、イエズス会のコンスタンツォ神父が平戸に入る。『日本切支丹宗門史』には「平戸の町にも、多数の囚徒がおり、その中には、先のフロレス神父の宿主だったエルナンド・シメネスというイスパニア人と、その日本人の妻、並に下婢がいた。カミロ師(コンスタンツォ)は彼等の隠れ家に入り、その告白を聴き、殉教の準備をしてやった」とあり、当時の平戸に外国人を含む多くのキリシタンがいた事が想像される。さらに彼は生月島の舘の浜で聖務を行い、さらに五島小値賀島の属島・納島に3日間滞在し、ついで五島領の宇久島に渡ったところで役人に捕えられ、平戸に護送される。コンスタンツォは平戸の対岸の焼罪(平戸市田平町)で1622年9月15日に火刑に処せられるが、その様子を平戸に入港していた蘭英連合艦隊の乗組員達も多数見物している〔1622年度殉教報告〕。なお先行する9月11日、コンスタンツォと行動を共にしていた同宿・ガスパル籠手田が長崎で斬首され、また壱岐ではイエズス会のアウグスティノ太田修道士と他の十名の者が処刑されている。
しかし今回の処刑は宣教師側だけに止まらなかった。生月島における宿主となったヨハネ・テンカモト・ザエモン(坂本左衛門か)、小舟の寄附者ダミヤン・イスライ・インデグチ(出口)、船頭のヨハネ・ヤキヌラ(雪浦)とパウロ・オタ(小田)など、神父達の活動を助けた者達も、5月から6月にかけて中江ノ島などで処刑されている。さらに2年後の寛永元年(1624)には、彼等の家族も中江ノ島で処刑されている〔『日本切支丹宗門史』〕。なお平戸藩側の記録である「三光譜録」79にも「其後生属の才吉、又作、惣次郎、源右衛門四枚帆に伴天連壱人乗せ、多久島納島獅子村などへ来り候を、井上八郎兵衛聞付、宇久島の内神の浦にて捕へ、四人は首を刎ね伴天連は長崎へ被遣候事元和九年也」とあり、年号こそ前後するものの、捕縛場所等から考えてコンスタンツォ神父逮捕の一件を指すものと思われるが、「宗陽公以来之物」(家世伝引用書類10ノ9)によると、伴天連を宇久島で召し取った功で松浦隆信(宗陽)から井上右馬允に感状が出されており、西の処刑に続きコンスタンツォ神父の逮捕についても井上氏の関与が確認できる。また「平戸領古切支丹類族存命帳」にも、生属島里村の治郎右衛門と妻・なつが寛永元年に数日曝された後で簀巻きにされ海に沈められたという記事があるが、これも元和・寛永の弾圧に関係した記事と思われる。なお「三光譜録」79には「翌寛永元年生属の姫宮の神前にて島中の男女を集め、宗旨立帰り候様にと、牛王に誓詞血判を(井上)八郎兵衛為致候時、雪浦次郎兵衛斗りは転び申間敷と申候故、大勢の中にて次郎兵衛夫婦男子一人共に竹簀巻にして即座に海に沈め申候」とあり、宣教師側の記録と登場人物や処刑法で一致するところがあるが、コンスタンツォ神父に関する連座とは記しておらず、全島民に対する熊野誓詞を用いた棄教の強制の中で、従わない者を処刑したとしている。この記事と、前述した1620年頃に起きたとされる島の司からの棄教の促しとは共通する部分があるが、実は元和・寛永の弾圧は、1620年頃の棄教政策と一連の、井上八郎兵衛(右馬允)を実行者とするキリシタン根絶政策の成果と捉えることもできる。その中では棄教を明確に拒否するような中核的な信者が抽出され処刑されたと考えられが、一方でたとえ信仰を続けたとしても、表面的な棄教の形を取りさえすれば、目こぼしされるような形式的なものだったとも思われる。いずれにせよ慶長14年(1609)の西玄可の処刑と、元和・寛永の弾圧を比べると、対象をより裾野の方に広げているのは間違いない。
 なお「平戸に於ける西教弘通史」には、寛永2年(1625)に一人の神父が平戸地方を訪問したとあるが、この頃以降平戸地方のキリシタン信者は、ローマのカトリック教会との接触を断たれ、自力で組織を維持して信仰を存続せざるを得なくなる。なお平戸イギリス商館長コックスは、1622年当時の平戸国主(松浦隆信)と母、兄弟姉妹はキリシタンで、1623年の商館閉鎖も国主の指示だったとしている。

④浮橋主水事件
浮橋主水事件メンシアの墓

籠手田・一部氏の退去後、平戸に残るキリシタン信者の中で最も地位が高く、力を持ち得たのは松浦久信夫人で藩主・隆信(宗陽)の母である松東院(メンシア)だった。平戸地方のキリシタン信者は彼女の保護と救援にすがる状態だったが、彼女も寛永7年(1630)には江戸に移らざるを得なくなる。さらに寛永14年(1637)に松浦隆信が没し、正宗寺に葬られている。
 彼に仕えた浮橋主水は、かねて殉死を口にしていたにも拘わらず、殉死しなかった事を非難されて出奔し、寛永16年(1639)江戸で、平戸でキリシタンが信奉されていると訴え出る。浮橋主水一件と称されるこの事件については、江川喜兵衛の手記に詳細な記述があるが、それによると訴えの内容は、キリシタンを信奉する大村氏から入嫁した前藩主隆信の母(松東院)が、依然としてその信仰を持ち続けていて、隆信亡き後に松東院の関係者を取り立て、自分を邪険に扱った挙げ句平戸に居られないようにしたというものだった。しかし調査のため平戸を訪れた江月和尚の機転で嫌疑は晴れ、松平伊豆守が取り仕切り、平戸から熊沢大膳、長村内蔵助、江川喜兵衛らが出席した幕府の評定では、熊沢大膳が冒頭「主水其方は夢物語を申上候か」と一喝して評定の流れを引き寄せた上、平戸のキリシタン布教は貿易や鉄砲の技術伝播と関連して行われたが、禁教令が出された後は教会を破却しキリシタンも排除したと主張する。評定の結果、主水は伊豆大島に流罪となり事件は決着している。
なお寛永11年(1634)には、西玄可の次男でマニラでドミニコ会の神父となった西六左衛門(トマス・デ・サン・ハシント)が長崎で処刑されている。またカトリック関連ではないが、寛永16年(1639)には幕府の鎖国政策に沿って、オランダ人やイギリス人の日本人妻と、その子供(混血児)ら32人が、平戸からジャガタラ(現在のインドネシア、ジャカルタ)に追放されている。追放された子供が日本の親族等に書き送った手紙が「ジャガタラ文」で、現在平戸に5通が残っている。

⑤正保の弾圧

さきの元和・寛永の弾圧は、カトリック側の記録に残る平戸地方の弾圧の最後のものだが、平戸藩側の記録から、その後の正保年間にも弾圧が行われた事が確認できる。「山本霜木覚書記起編」(家世伝引用書類7ノ21)には、正保2年(1645)に、生月島及び平戸島の獅子村・根獅子村において密かに切支丹を信仰する者が発見され、その一族が悉く長崎に送られ、長崎や平戸で死罪に処されたとしており、「平戸領古切支丹類族存命帳」にも、生月島館浜の鍛冶屋・新兵衛が正保乙酉年(2年)に「同島之者共切支丹之志失不」という訴えがあり斬罪になったという記述がある。こうした弾圧は、偶発的な信仰の露見に対するみせしめ的な処断だったのではないだろうか。

(3)禁教第3期:弾圧の鎮静化

①禁教制度の整備
禁教制度の整備踏み絵(イメージ)

正保の弾圧以降、地元のキリシタン信者に対する実際の弾圧事件は確認できないが、平戸藩は、幕府の禁教法令に沿った形でキリシタン禁止のための制度作りを進めていく。「山本霜木覚書記起編」には、正保の弾圧以降、宗門改奉行を定め、生月、獅子、根獅子には押之者(押役)を置いて男女老若を問わず残らず絵踏を励行させたとある。なお『生月村郷土史』には、生月島には井上氏退去後に郡代を置き川尻氏をその任とし、その下に押役を置き、押役所を山田に置いたとある。慶安3年(1650)に町奉行より出された法令「諸役所勤方定法」(松浦家文書)のキリシタンに関する内容を次に掲げる。
「一 従公儀之御法度聊御不相背様ニ兼々堅可申付候就中切支丹 宗門之儀折々稠敷可相改若他国より参候而紛居候者を訴人仕候は其分限ニ随而一廉不うひ可申付隠置候者ハ従類曲事ニ可申付事付リ盗賊其外諸法度相背者致訴人候は褒美可遺事」
 この法令では、キリシタン布教の為に他国から来た者(宣教師)を隠す事は犯罪で、訴え出るように言っている。
 次に示す寛文2年(1662)の「在々定」(松浦家文書「政庁要録七」所収)には、前掲の慶安3年の内容に加え、具体的な政策が記されている。
「一 切支丹宗門改之儀年中両度つゝ領内無残所宗門奉行差越入念改候得共領分端々浦々島々迄其所之押郡代浦役人等折々打廻若他所より宗門疑敷者ハ不及申勧進修行者其外怪異不思議成儀仕候者に至迄宗門改禁法之条数を以常々心を付無油断可致穿鑿事」
この文書では年に二度、領内で宗門改の絵踏を行う以外に、役人達が領内の隅々まで回って、キリシタンではないかと思われる者の他、よそから来た勧進や修行者など宣教師が紛れている可能性があるような疑わしい者を厳しく穿鑿するように求めている。
 さらに延宝6年(1678)に町方に対して出された「御改之御請五人組連判」すなわち五人組で守られるべき条項(松浦家文書「政庁要録十天祥公御代御法度」所収)の中にも、次のような項目が設けられている。
「一 伴天連いるまん之儀ハ不及申切支丹宗門組中男女之内一人も無御座候若見聞仕候ハヽ早速可申上候組外より申出候ハヽ組中同罪ニ可被仰付候事 」
五人組の中にキリシタン信者がいた場合は、すぐに訴え出るよう定めるのみならず、もしもそれが組外の者からなされた場合、組内は同罪として処断するという連座制を適用することで、相互監視の強化を図っている。
 なお正保2年(1645)に始まったとされる絵踏の具体的な実施内容については、延宝9年(1681)町民に対して出された「天祥公御代御法度」(松浦家文書「政庁要録十」所収)の内容に見る事ができる。
「 絵踏之次第
一 毎年正月一家内之男女当歳子まで書付五人組一紙ニ仕乙名方え持参仕懸々之人数改帳面を以増減を相改無相違之様仕置 絵踏之節壱町ニ壱軒完宿を相定宗門奉行町奉行前ニ壱人宛呼出絵を踏せ可申候旅行之節ハ慥ニ帳面に記置罷帰次第宗門奉行所にて絵を踏せ可申候 絵踏皆済仕候以後町年寄乙名皆済証文ニ町奉行判形仕宗門奉行え相渡可申事
一 町年寄役之者ニは絵板相渡一家内之男女嫡子之妻子娘まて自分見届絵を踏せ可申候其身壱人は宗門奉行前ニ而踏可申候妻子以下壱人茂不残踏仕廻せ候以後相違無之段銘々證文仕宗門奉行方え相渡可申事  」
これによると、正月の時点で五人組に属する家々の構成員と年齢を書き付けて乙名へ提出するように義務づけ、それを基にして町毎に宿を設けて、宗門奉行、町奉行の面前で踏絵を行わせ、町年寄達も宗門奉行の所で行うようにしている。
絵踏を行った領民に対しては、宗門改手形が出されている。
「 宗門御改手形
一 拙者家来男壱人
右者當年宗門御改切支丹之絵図踏申候於宗門疑為者無御座候図後日如件
 天保十四 癸卯 年四月五日 中原市左衛門
   森田作之進 殿
       鮎川弁三郎 殿
       坂本六之進 殿
       大桑宇年太 殿
       立石戸左衛門殿
       熊沢一之進 殿
       戸川織右衛門殿
この史料によると、武家の場合、家来の宗門改手形をあるじが出すような形を取っていた事が分かる。
「 宗門御改手形
一 田助浦惣人数四百三拾壱人
    内百四拾三人浦人   同六拾五人男
       同七拾八人女
    内弐百八拾八人町人  同百三拾四人男
  同百五拾四人女
 右私然中當春秋両度之宗門御改不残切支丹之絵巻踏申候於宗門疑補者壱人茂無御座候尤絵踏残之者御座候志我々曲事(中断) 」
この史料は年代不詳だが、田助浦の住民が、春と秋に行われる踏絵を全員踏んでいて切支丹ではないことを証明している。
絵踏に用いられる踏絵の起源について、「三光譜録」114には、万治元年(1658)に生月島に居住していた播州明石の三吉という者が、邪仏を一体ニウ(積藁)の中に隠して「忍び忍び念じ」ていた事を切支丹役人が知り、三吉の同類3人を捕らえて平戸に送り、信仰していた邪仏を踏ませたところ忽ち邪宗を止めたといい、その後も宗旨が怪しい者に踏ませて改宗を図ったという。この事を時の平戸藩主が長崎奉行所の馬場三郎左エ門に話したところ、邪仏を見たいと言ったので長崎に送り、長崎ではその邪仏を鋳崩して下地金を足して多数の絵板(踏絵)を製作し、平戸でもそのうち4枚を踏絵の時だけ長崎(奉行所)から借りるようになったという。なおこの話の前半については、生月町堺目下宿でかくれキリシタンの御前様(御神体)として祀られている無原罪の聖母のプラケットにまつわる伝説と通じる部分がある。この御前様は元々別の家で祀られていたが、その家が役人の探索を受けた際、家人が藁束の中に御前様を隠して牛の喰みとして投げ渡し、それを先祖が持ち帰って祀ったのだという。御神体の行く末に違いがあるものの、藁の中に隠すという所が共通しており、何か関係あるのかも知れない。
 また「山本甚右衛門覚書」(家世伝引用書類10ノ73)によると、平戸藩では法印公(松浦鎮信)の頃から踏絵に用いてきた切支丹仏と絵板4枚が古くなったため、寛文8年(1668)にそれらを長崎奉行所に送るとともに新しい踏絵の借用を願い出ている。その時使者に立った山本甚左衛門らは、平戸領では壱岐や小値賀島のような遠島を含み例年絵踏に8~9カ月もかかる状態なので、正月から4月中までと7月から10月中までの二度、出来れば3~4枚を借用したい旨を申し上げている。その際、古い踏絵は長崎奉行立会いの元で焼却しており、新しい踏絵については現在充分な在庫がないので、将来所要の数を整える事として、取りあえず今ある2枚を持ち帰っている。しかし踏絵の使用が松浦鎮信(1614年没の法印公)の時代まで遡るとは考え難い。
 総合すると、平戸藩では当初、信者から没収したプラケット等を用い、それを所持し信仰していた者や、宗旨が怪しい者など、いわば信者だとほぼ特定されている者に絵踏をさせ、その棄教を判断していた。その後、キリシタン信者を探索する目的で、不特定多数の領民に対して制度として絵踏を行わせるようになるが、踏絵自体は長崎奉行所から借用する形を取っている。
なお明暦3年(1657)には、大村藩で起こった「郡崩れ」と呼ばれる弾圧事件で検挙されたキリシタン600人余りのうち98人を平戸藩が預かり、7月26日にそのうち64名を処刑しているが、この事件を契機に絵踏も励行されるようになったという。

②生月・平戸系かくれキリシタン信仰の継続
生月・平戸系かくれキリシタン信仰の継続五峰王直の像

16世紀中頃を期に、キリシタン禁教についての具体的な弾圧の記録は無くなる。しかし旧籠手田・一部領の生月島と平戸島西岸では、仏教や神道などの信仰を並存させながら、禁教以前のキリシタン信仰の要素を概ね保持した、かくれキリシタン信仰を継続していく。以下、その信仰内容を紹介する。
【組織】生月島の在部3集落(壱部、堺目、山田)では、集落規模の組、集落内に複数存在する凡そ数十軒からなる「垣内」「津元」、垣内・津元の下部組織にもなっていて数軒からなる「小組」「コンパンヤ」の、大中小の組で構成され、集落規模の組には「お授け」などを行う「慈悲役」という役職が複数居り、垣内・津元には組の代表で「御前様」という御神体を祀る家の戸主である「親父役」が一人居る。小組・コンパンヤには御神体である「お札様」を祀る宿の戸主である「み弟子」が居り、その人は所属する垣内・津元の役である「役中」となって、諸行事を執行する。なお残る在部1集落である元触には垣内と小組しか無く、御爺役は垣内の役職になっている。平戸島西岸にある根獅子の組織は、集落規模の組と小組(慈悲仲間)のみからなり、前者は「辻の神様」と呼ばれる家の戸主が集落の信仰の代表となり、集落内の4地区から選出された7名の「水の役」が洗礼の他、様々な行事を行う。
集落単位の組の起源は、1550年代以降、集落単位で設立された慈悲の組(ミゼリコルディア)である。この組には教会堂の管理や信者の指導、葬送や洗礼を行う「慈悲役」という役職が複数置かれたが、これが御爺役や水の役の起源である。また小組・コンパンヤと呼ばれる組は当初、慈悲の組の下部組織として設立された。
 1580年代になると、慈悲の業や特定対象の信心などを目的にした信心組(コンフラリア)が導入される。当初は信者が任意に加入する組だったが、禁教が始まると全ての信者が加入する形となり、教会に代わって信仰継承の中核組織となる。生月島では1600年頃に設立されている事が西玄可の殉教記録から読みとれるが、聖画(お掛け絵)を飾って特定の対象を信心するのが目的の組だったようだ。生月島では、従来からの小組をいくつか結合させて結成され、こんにちの垣内・津元に繋がっていく。なお根獅子では信心組は未導入ないしは定着せず、慈悲の組の形態がそのまま維持されたようだ。
【御神体】垣内・津元の御神体(御前様)には「お掛け絵」(聖画に起源する掛け軸形態の絵)が多く、「金仏様」(プラケット・メダイ)や「コンタツ」(ロザリオ)も見られる。小組の御神体は「お札様」(マリアの生涯を表す15枚と他1枚で構成された木札)で、「お水瓶」(聖水を納めた小壺)や「オテンペンシャ」(元は苦行の鞭、祓いに用いる)は行事に用いられる他、それ自体も御神体として垣内・津元などに祀られる。お水を大切に保管したり薬に用いるのはキリシタン信仰前期から行われており〔1554アルカソヴァ〕〔1564フロイス〕、オテンペンシャを病気直しに用いる事もキリシタン信仰前期に事例が存在する〔1562アルメイダ〕。聖画も前期から存在したが、多く用いられるようになるのは、セミナリヨの画学舎で制作されるようになり、信心組の対象として用いられるようになる中期以降の事である。
御前様は、弾圧が厳しかった頃には甕に入れて埋められたり、屋根裏の藁の中に隠されたり、人里離れた洞窟に置かれたりしたようだが、弾圧が一段落すると、家内の納戸に木箱に入れて置かれ、主な行事の時だけ仮設の祭壇を設けて飾られるようになったと思われる。
【聖地】かくれキリシタン信仰の聖地には、確かな殉教の記録を持つ「ガスパル様」(山田)「中江ノ島」(生月全体、春日)の他、殉教の伝説が残る「茶屋のジサンバサン」(壱部)「焼山」(堺目)「幸四郎様」(同)「ダンジク様」(山田)「千人塚」(舘浦)「おろくにん様」(根獅子)、キリシタン当時の由緒の地である「御屋敷様」(壱部)の他、水に関わる行事が行われた「ハッタイ様」(山田)、雨乞いが行われた場所である「鋤の神」(山田)などがある。これらの中には「おろくにん様」「ガスパル様」「焼山」のように、キリシタン時代に墓地だったと思われる場所もある。
【行事】生月島の垣内・津元では年間を通して多くの行事が行われる。その中には「上がり様」(復活祭)、「おとぶらい」(死者の日)、「ご産待ち」「ご誕生」(クリスマス)のようにキリスト教の祝祭に由来するものもある。また正月元旦に津元の御前様をお詣りする行事が行われているが、1600年前後に元旦が「お護りのサンタマリアの祝日」に制定された事に由来すると考えられる〔1599~1601日本諸国記〕。
また「田祈祷」「麦祈祷」「風止めの願立て(願成就)」「まや追い出し」など、農耕や牛に関する行事や、「屋祓い」「養生」(病気直し)のように生活に関する行事も多く、野外で行われる行事も多い。人の一生の中でも「お授け」(洗礼)や「戻し」(葬式)「法事」などが行われる。
このように、教義に則った行事のみならず、信者の生活全般に対応して様々な行事が行われる形態は、禁教以前のキリシタン信仰で行われていたものが、そのまま継続されてきたと考えられる。
【オラショ】かくれキリシタンの信仰行事で唱えられる祈り「オラショ」は、16世紀にキリシタン信仰の中で唱えられていたオラショが、ほぼそのまま継承されたものである。
生月島で唱えられる形態である「一通り」は、30ほどの祈りを続けて唱えていく形だが、
キリシタン信仰当時に祈りを覚えていた順番で唱えている事が分かっている。オラショの中で音階を付けて歌われる「唄オラショ」は、ヨーロッパで歌われていた聖歌が伝わっている。
【信仰の並存】生月島・平戸島西岸のかくれキリシタン信者は、かくれキリシタン信仰とともに、仏教や神道の信仰にも、親和的な並存の関係で関与しており、屋祓いのように同じ目的で複数の宗教・信仰が行事を行う例も少なくない。それを可能としたのが漁業経済の発展である。
 生月島周辺は優良な漁場で、18世紀初頭以降、捕鯨や鮪定置網漁などの大規模漁業が展開していく。例えば生月島の鯨組・益冨組は壱岐や五島灘への進出を果たす一方、熟練従事者を島外遠方からも多く雇用する形を取っている。また壱部浦や舘浦などの浦方集落は、漁業生産物である鯨油、鯨肉、鮪油、乾鮑などの販売を通じて、畿内や瀬戸内、下関や筑前、長崎などの経済圏と結びついていく。その一方で、かくれキリシタン信仰の直接的な担い手だった生月島及び平戸西海岸の在方集落は、浦方が必要とする物資、食料、労働力を提供する事で浦方の産業活動と不可分に結びつき、浦方集落を核とする独自の地域経済圏を形成していく。さらに在方集落の住民自身も積石工や酒造などの技量を高め、19世紀に入るとそうした農閑期の出稼ぎによる経済活動を平戸領内に留まらない広い範囲で展開していく。そうした出稼ぎや浦方との商い・労働で得た利益で、畑や棚田などの開墾を行い、溜池や水路を整備していく。
 要約すると、生月島、平戸西海岸のかくれキリシタン信仰地域は、恵まれた漁場環境を活かして発達した捕鯨その他の水産業を中核とする有力な地域経済圏と、高い技量を有する出稼ぎ労働の組み合わせで地域の経済基盤を形成し、それに依拠する形でかくれキリシタン信仰の組織と行事を存続・継続していったばかりか、並存する仏教・神道の宗教者を維持し、行事を行う事も可能ならしめたのである。こうした関係性は、20世紀に入り捕鯨業が巾着網(まき網)漁業に移行した後も継承され、まき網漁業や港湾建設業が減速傾向を迎えている今日もなお、機能し続けている。

③外海系信者の移住
外海系信者の移住お掛け絵
(平戸市生月町博物館「島の館」所蔵)

長崎近郊の浦上や西彼杵半島西岸の外海地方では、長崎周辺に最後まで残って宣教活動を行っていた宣教師の影響を遅くまで受け、禁教に対応したキリシタンの信仰形態が形作られたと考えられる。外海・浦上系かくれキリシタン信仰の形態は、生月・平戸系と異なる所が多い。信仰の中心は日繰帳(宗教暦)に従った生活規律の遵守で、組で行う行事は年数回程度と少ないが家族全員で参加し、オラショは男女共が無言で唱え、野外の行事は殆ど無い。マリア観音信仰もこの系統のみに見られる。仏教や神道など他の宗教に対しては、消極的(対峙的)並存の姿勢を取っている。
外海地方は、大村領の中に佐賀支藩の深堀領が点在しているが、早くから甘藷の栽培が普及し、18世紀後期には人口の増加が問題になっていた。大村藩は人口増を抑えるために、寛政8年(1796)に次三男の分家を禁じ、破った者を厳罰に処す法令を出している。一方で、労働力の不足に悩んでいた五島藩と協定を結び、寛政9年(1797)には108人の百姓が大村藩から五島福江島に移住している。これは合法的な移住だが、それ以外に密かに大村領から逃散する者も多く出ている。
 平戸藩家老が残した「当職日記」寛政11年(1799)3月6日の項には、次のような記述がある。
「 一 下方筋え大村領之者数十人家内連ニ而相越候段、去ル二日申シ立候ニ付、原宇内早々罷越、相糺候様及指図置候処、則遂吟味罷帰、都合九拾五人程紐指・古田筋江参居候由、口書人数付井元熊太夫差出之
一 右之者共彼方ニ而一統竈分ヶ相願其通相済候処、壱軒ニ付三百目宛出銀被申付、凌相成不申候    故、罷出候趣共委細口書出候事
一 右之者切手不致所持候由、無切手之者ハ指置候義不相成旨申聞候様、原宇内江熊太夫 内蔵助 和平ヨリ申含せ候事
これによると、大村領から平戸島中南部の紐差と古田に九十五人が逃散してきたという記述がある。彼らは幕末以降、カトリックに合流している事から、外海・浦上系かくれキリシタン信仰を信奉していたと思われる。なお江戸時代後期に上五島に移住していた外海系住民が、昭和に入って平戸島北部の油水、中の原、大久保、中の崎などに入植しているが、彼らも外海系かくれキリシタン信仰を保持していた事が確認されている。

3.復活時代

幕末の開国によって、オランダ以外の欧米人も多く日本を訪れるようになる。開港場には外国人居留地も設けられるが、慶応元年(1865)長崎の居留地内に完成したばかりのカトリック大浦天主堂において、プチジャン神父と浦上の潜伏信者が会合を果たす。明治6年(1873)には、明治政府がキリシタンの禁教を撤回する。これによって国内でのカトリックの布教が再び認められるが、これによって潜伏信者も、長い間信仰を大きく規定してきた外的因子である禁教政策の拘束を脱し、信仰を表面化して罪になるという恐怖から解放されることとなった。このような外的因子の変化に依拠し、明治6年(1873)以降を復活時代とする。
 しかし実際には、浦上の信者のように禁教撤回より先立つ形で潜伏信者とカトリック教会との接触や再布教が図られている。平戸島では、禁教時代に外海から移住してきた上神崎、京崎、紐差、宝亀がカトリックに合流した他、明治になって京崎、雨蘇、田崎、坊主畑、木カ津、山野などに外海や黒島、五島からカトリック信者が移住している。しかし平戸島西岸の中野、春日、獅子(高越を含む)、根獅子、飯良などの潜伏信者の中からは、カトリックに合流する者は少数にとどまっている。
 『生月のキリシタン』によると、生月島では、明治元年(1868)黒島の吉田千代治による宣教を手始めに、明治5~6年頃(1872~73)には黒島の出口大吉・大八兄弟が教え方として来島し、ペール神父も暗夜に乗じて来島し、山田の小楠亀太郎氏宅の押入に籠もって布教を行いつつ禁教撤回を迎える。さらに明治11~12年頃(1878~79)には神父達の言葉を確かめるべく山田から米倉傳作、西村藤之助が長崎に派遣され、自ら信者となって帰還している。その後、山田や壱部の信者の一部がカトリックに合流していくが、生月島の大部分のかくれキリシタン信者は、禁教時代の信仰形態をそのまま引き継いでいく途を選ぶ。
 その後カトリックの布教は順調に推移し、昭和39年(1964)には平戸小教区に属する平戸、上神崎、古江各教会に2,123人のカトリック信者が、宝亀小教区に属する宝亀、中野、山野各教会に同じく1,023人が、紐差小教区に属する紐差、田崎、獅子、木ケ津、大佐志各教会に2,529人が、生月小教区に属する山田、壱部各教会に416人が、南田平小教区に属する南田平、以善各教会に1426人が属している。
 一方、かくれキリシタン信者は、禁教解除後も、禁教時代と同じく外部者に対し行事や御神体を秘匿するスタイルを続けるが、平戸島では平成4年(1992)に根獅子の組織が解散したのを最後に、組織的な形での信仰は終わったとされる。生月島では、田北耕也氏によると昭和20年代には人口1万1千の9割弱がかくれキリシタン信者とされ、壱部、堺目、元触、山田の4集落に25の垣内・津元が存在しているが、昭和6年(1931)頃に田北耕也氏が現地研究の先鞭を付けた頃から次第に秘匿に拘らなくなり、それにつれて信仰形態も隠さない形に変化している。平成に入ると組織の衰退が急速に進み、平成26年(2014)現在、生月島内の人口約6,000のうちかくれキリシタン信仰に関係している人は500人弱程度と推定され、行事を続ける垣内・津元の数も5つとなっている。