平戸のキリスト教の歴史

伝来と繁栄の時代

1.西の都「平戸」で布教が始まる

1.西の都「平戸」で布教が始まる

戦国時代の最中の1550年、すでに海外との交易が盛んだった平戸の港に、日本で初めてポルトガル船が入港します。その前年に鹿児島に着いた宣教師フランシスコ・ザビエルは、ポルトガル船が平戸に来たことを知り、平戸を訪れました。そこから平戸でのキリスト教の布教が始まりました。

2.教会堂が建ち、キリスト教が広がる

2.教会堂が建ち、キリスト教が広がる

 当時、平戸をおさめていた松浦隆信は、交易発展に繋がると考え、家臣の籠手田氏と一部氏がキリスト教に改宗することを許します。この2人の家臣は、領地であった平戸島西海岸地域と生月島の住民をキリスト教へ一斉改宗を行い、日本における最初のキリスト教繁栄の地となりました。当時広まったキリスト教と、それを信じた信者は「キリシタン」と呼ばれました。

禁教と密かな継承の時代

3.キリスト教の弾圧が始まる

 日本各地でキリスト教が広がるにつれ、キリシタンと寺院や神社の間で対立も起き始めます。また、長崎を治めていた大村純忠は貿易を盛んにするために、この地をイエズス会に寄進する事態も起きていました。豊臣秀吉は1587年に、キリスト教の宣教師を国外に追放する「伴天連追放令」を出します。しかしながら徹底的な弾圧は行われず、本格的な禁教が全国的に始まったのは江戸時代になってからです。そのような中、平戸ではキリスト教に寛容だった松浦隆信の死後、全国的にも早い1599年から弾圧を始まりました。

4.潜伏し、密かに信仰をつたえる

4.潜伏し、密かに信仰をつたえる(平戸市生月町博物館「島の館」所蔵)

 それまで集落にあった教会堂や十字架は壊され、人びとはお寺や神社も受け入れますが、キリシタンの信仰も密かに続け、「潜伏キリシタン」と呼ばれています。家の奥に「納土神」と呼ばれるご神体をおまつりし、「オラショ」というキリシタンの祈りの言葉を唱えながら、信仰を受け継いできました。

解禁と復帰の時代

5.ふたたびキリスト教の信仰を行う

5.ふたたびキリスト教の信仰を行う

1853年のペリー来航で日本の鎖国は終わります。その後、長崎の外国人居留置にフランス人の礼拝堂として1865年に完成した大浦天主堂に潜伏キリシタンが訪れ、キリシタンであることを告げたことから、日本に長い禁教時代を耐えて、キリシタンの信仰を続けてきた人びとがいる事が広く知られることになります。そして、1873年、明治政府はキリスト教を解除することになり、カトリックの神父が各地で布教を行いました。潜伏キリシタンは併せて信仰していた仏教や神道などを棄却し、カトリック信者となり、集落には教会堂が次々と建てられました。

6.密かに信仰を伝えてきた行事などを続ける

 6.密かに信仰を伝えてきた行事などを続ける(提供:平戸市生月町博物館「島の館」)

しかしながら、禁教が解かれたあとも、禁教時代に密かに守ってきた信仰のしかたを継続した人たちがいました。彼らと、彼らの信仰は「かくれキリシタン」と呼ばれています。こんにちのカトリックと異なり、教会を持たず、また禁教時代におこなったキリシタン信仰と仏教や神道なども並行して行う様式をそのまま続けることを選びました。
春日集落は近年まで、かくれキリシタンが続いていた集落であり、生月島には今もなお、かくれキリシタンを続ける方々が生活しています。