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○カトリック田平(瀬戸山)教会
田平は、元々潜伏キリシタンが居住していた地域ではなかった。
明治19年(1886年)になると、黒島教会のラゲ神父や、外海・井津教会のフランス人宣教師ド・ロ神父が、
私費を投じて田平に屋敷や開墾用の土地を購入し、黒島から3家族、井津から19家族の信徒を移住させた。苦労して開墾した畑は水持ちが悪く、また酸性土壌を中和する石灰も買えないため、海岸から藻を運んで敷き込んだという。
その後、外海、黒島、五島、平戸からの自費移住者が増加し、信徒の数も増えていった。そうした中、明治20年(1887年)にはラゲ神父によって最初のミサが行われた。
さらに大正7年(1918年)には信徒の永年の寄付の末に教会が完成するが、昭和20年(1945年)には教会が兵舎に転用され、同年7月27日には米軍戦闘機の機銃掃射も受けるという受難もあった。
しかし信仰は堅く守り受け継がれ、現在は南田平(瀬戸山)、平戸口、下寺など3つの教会に2,000人近い信徒が属し、田平小教区を構成している。
田平(南田平=瀬戸山)教会は、鉄川与助(鉄川組)の設計施工で大正7年(1918年)5月14日に落成した。赤煉瓦造りの教会堂正面には、どっしりとした鐘塔がそびえている。
内部は三廊式で、円柱にはコリント風柱頭飾が施され、その上の天井は円形リブヴォルト天井(いわゆるコウモリ天井)である。
教会には木造、煉瓦造、土・石造、コンクリート造があるが、同教会は鉄川が作った煉瓦造教会の中で、最も完成度が高いものとして評価されおり、彼自身も「自信昨」と語っていたと言われている。
焼 罪 ―カミロ神父の殉教―
慶長18年(1613年)、江戸幕府によって全国に禁教令が発せられた後は、国内に宣教師がとどまる事は不可能に近いこととなった。しかし、海外のカトリック教団は、折角日本に根付きつつあった信仰の灯を消さない為、宣教師を密かに入国させ、潜伏する信徒らに対する聖務を継続させようとした。しかし彼らの殆ど全てが捕らえられ処刑された。
カミロ・コンスタツォ神父もその一人である。
元和8年(1622年)9月15日、神父は、田平側の平戸瀬戸に面し今日焼罪(やいざ)と呼ばれる地で火あぶりの刑に処される事となった。そこは対岸に町と城を臨み、どこからでも処刑の有様を見る事が出来た。
見物人には日本人の他に、当時平戸にあったオランダ、イギリス商館の関係者や船員の姿もあった。すでに神父の処刑に先立ち、中江ノ島などで協力者が次々に処刑されていた。
神父は柱の上に縛られながらも日本語、ポルトガル語、フランドル語の三カ国語で説教し、聖書の文句を引用して「身体を殺す者を懼れるな」といった。そして火がつけられても説教を止めず、最後は「ラウダーテ・ドミノ(諸人挙りて主を讃めまつれ)」や「サンクトュス(聖なるかな)」を唄いながら息絶え己の信仰を全うした。
彼の遺骸は信徒の信仰対象とならぬよう、海中に投棄された。
2007年1月「長崎の教会群とキリスト教関連資産」として文化庁の世界遺産暫定リストに掲載-
住所 平戸市田平町小手田免19.
電話 0950−57−0254
見学 6時〜17時
駐車場 有り(無料)
地図は こちらから
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(C)2007 Hirado Sightseeing Assocation
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