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平戸地方のキリシタン史
平戸地方のキリシタンの歴史を大まかに区分すると、次の三つの時代からなる。
○キリシタン時代
天文十八年(1549年)のザビエルの来航以来、ローマの教会と繋がった宣教師達によって積極的にキリシタンの布教がはかられた。しかし天正十五年(1587年)豊臣秀吉の伴天連追放令の頃から、厳しさを増した禁教政策により教会勢力は弱められていく。
○潜伏時代
慶長十八年(1613年)の全国的な禁教令以後、宣教師は追放・逮捕され多くの殉教者を出した。
信徒はローマの教会と切り離され、地域ごとに密かに信仰の維持がはかられたが、信仰の変容によるかくれキリシタン化はさけられなかった。
○禁教解除以降の時代(復活時代)
明治六年(1873年)に禁教が解除され、国内でカトリックの財布教が始まった。従来の潜伏信徒の中からは、カトリックに合流するものも出たが、潜伏時代のままの信仰形態を続けるかくれ(隠れ、カクレ)キリシタンのまま、今日に至るまで信仰を継続している者もいる。
天文十八年(1549年)鹿児島で、日本で最初にカトリック(キリシタン)の布教を始めたイエズス会の
宣教師ザビエルも、翌年には平戸を訪れている。
南蛮貿易港として天文十九年(1550年)以降、定期的にポルトガル船が入港するようになった平戸では、それ以後宣教師による布教が盛んに行われるようになった。
その結果、天文二三年(1554年)には、身分の高い者も含む200人の信徒ができ、その中には松浦隆信の又従兄弟である籠手田安経(ドン・アントニオ)もいたと思われる。
生月島、度島、平戸島西岸等の籠手田領を中心に信者は除々に増え、永禄八年(1558年)のガスパル・ヴィレラ神父による一円布教後の信徒は1500人を越えた。
しかし、永禄四年(1561年)には、平戸の七郎宮前で商取引を原因とする殺傷事件(宮の前事件)が起き、ポルトガル船は入港地を大村領の横瀬浦に移す。
その後大村市家臣の反乱による横瀬浦の炎上で再び平戸港に寄港するものの、布教に非協力的な松浦氏
の態度は変わらない為、ポルトガル船の寄港地は福田さらに長崎へと移っていく。
しかしながら平戸での教勢はますます盛んとなり、生月や度島など各地に教会が建てられ、ラテン語の聖歌が唄われ、西洋式の医術も施された。
天正十五年(1587年)に豊臣秀吉が出した伴天連追放令は一時的なものだったが、徳川幕府の時代になると禁教政策は次第に徹底され、慶長十八年(1613年)の禁教令で国内から宣教師や信徒が追放され、寛永十六年(1639年)にはポルトガル人の来航が禁じられた。
また国内信徒対策として、宗門寺請制度や踏み絵行事なども行われるようになった。
平戸の松浦氏もそれに応じて禁教政策を強め、慶長二年(1597年)には度島のキリシタンを壊滅させ、慶長四年(1599年)には松浦鎮信から仏式の法要への参加を強制された籠手田志、一部氏が800人ものキリシタンとともに長崎に亡命する事態となる。
その後も西玄可の処刑や神路事件のように、キリシタンや潜入神父の検挙と処刑が行われ、残った信徒は表面上は神仏を信仰しながら、密かにキリシタンの信仰を維持する道を選んだが、教義は希薄化し、次第にかくれキリシタン信仰へと変容した。
明治六年(1873年)の禁教解除後、平戸島中部の紐差・宝亀の住民にカトリックが広まり、生月島の山田では、一部の潜伏信徒がカトリックに合流し、各地に教会が建てられたが、生月島や平戸島西岸の大部分の潜伏信徒は、潜伏時代のかくれ(隠れ、カクレ)キリシタンの信仰形態をそのままつづけた。
しかし今日では、生月島を除いて組織の多くが崩壊している。
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